海と煙のエレジィ



 最上階まで昇りつめた太陽が降る、そんな砂浜。
足にまとわりつく海水。体内を侵食する潮風。
「あたしは基本的に傲慢なのよ。あたしが美しいって思ったものを他の人が美しいって言い出したら、それはもうあたしの中では美しいものじゃあなくなるって事、知っているのにね」
 赫はカメラのフィルムを切り裂きながら笑った。
引き攣った笑いは、赫の美しい口唇を歪める。しかし、それでも彼女は美しかった。
「それでも、美しいものを求め続けるのは何故?いつか飽きるって判っているのに」
 は切り裂かれたフィルムに煙草の灰を落として踏みつけた。
「美しいものは飽きても褪せないと思うの。ただ、あたしの興味が失せるだけ。飽きたら他の物に魅力を感じるでしょう?」
「でも、あんたの美しいと思う物は、一般的には受け容れられないでしょ」
「一般的って何?それって人によって違うでしょう」
 忌々しげに赫は顔を歪めた。
まるで汚いものでも見たように赫の顔が歪む。は面白そうに微笑すると、煙を吐き出した。
 煙は風に乗って消える。そして風は更に、地面に落ちていたフィルムに少しだけ移動を促した。
「グレシャムの法則のようだわ」
「何が?」
「最後にあたしたちの中に残るのは、所詮悪質な物だけという事」
「でも、君は悪質なものに美を感じているんでしょ?」
 一体、美しい物に良悪なんて有るのかしら…そう考えた赫は、頭の奥がむず痒くなる気がして、から煙草を奪い取ると、脳までニコチンが、指先までタールが滲透するように肺の奥まで煙を喫い込んだ。
新しく火を点けた煙草をは一口喫っただけで踏み消すと赫の肩に手をかけて抱き寄せ口唇を重ねた。
「悪質なキス」
 が微笑しながら口唇を離すと、赫の口から煙が零れて糸ひいた。
「温いビールより最低ね」
「温いソォダとどっちが良い?」
「煙を貰うわ」
 切り裂いたフィルムを拾い上げ太陽に透かすと、焦茶の人間があった。赫によって切り裂かれたそのフィルムは、赫の趣味である写真の作品。赫の美しいと感じた物を再現する筈だったフィルム。
「あたしってば繊細なのよ」
「そう」
「ねえ。一体、どうしたら良かったのかしら」
「さあ」
「こんなにも美しいのに」
「うん」
「どうして皆、気付かないのかしら」
「何に?」
 興味なんて無さそうに煙を吐き出しながらは砂浜に寝転んだ。そんなの態度を気にもとめず、赫も海を見詰めた侭、煙を吐き出した。
「体の中に何か大変な違和感があって、それはきっと黒い塊で」
「うん」
「あたしはそれを吐き出したいと思う」
「うん」
「どうして皆、気付かないのかしら」
「黒い塊に?それとも、それを吐き出したいと思う君に?」
「愚問ね」
 風が吹いた、強風。フィルムが舞う。赫の少し長めのショートヘアが揺れる。
波。高波。
真昼の太陽に侵された水が、きらきらと光を称えて、何も履いていない赫の足を絡め取る。
丁寧にバイオレット・オレンジのペディキュアの塗られた指先から、銀色のシンプルなチェーンのアンクレットの光る足首まで。寝転んでいたの踵まで。海水は全てを抱く。きっと全てを…。
 波がひく。僅かな砂を攫うだけで。赫とは置き去りにされた小さな子供。
波から、海から、時から、世界から。
「あたし達はいつからココに立っているんだろう」
「心なんて無ければ良かった」
「あたし達以外の人達に?」
「そうしたら、俺はあんたは、海に来なくても済んだ」
「本当に美しいものは、醜く浅ましい人間よ」
「世界には俺が居て、あんたが居る。俺は、それ以外の何を知っているって言うんだ?」
「その世界は、あんた唯一の世界だって事?」
「泣いてるの?」
 は、上体を起こして、立ち尽くす赫を見上げた。丁度、の目線上にあった赫の手に挟まれていた煙草から、ぽとりと灰が落ちた。
「あたしは別に世間に認められなくったって良い。人に対して有害であろうと、あたしはあたしの美しいと思うものを求め続けるわ。だって、こんなにも苦しい」
「下らないイッパンジョーシキから抜け出せば良い」
「それでも、あたしはソコに居るのに。殺害されたあたしと、あたしの欠片」
 抜け出す。そうしたら、あたしはこの黒い塊を吐き出す事が出来るのかしら…赫は体内の水分を少しだけ海に還した後にそう思った。
でも、ソコから逸脱すれば、あの切り裂かれたフィルムのように殺害されるだろう。
赫はもどかしくて、悔しくて、咥えていた煙草のフィルターを噛んだ。
「こんなにも、世界は広くて美しいのに」
「イッパンジョーシキなんて、広い世界に触れたことの無い人間の言訳の言葉だよ」
「彼らは臭い物に蓋をするのが得意だものね」
「物が臭くなるまでの崩れ逝く過程の美しさを知らないんだよ」
「可哀想な人達」
 赫はの横に座って、ガラムを一本取り出して火を点けた。細い煙がゆらゆらと空を旋回して消えた。
「少し寒いね」
「そんな恰好してるからだよ」
 掌まで隠れる袖の長めのシャツの上に、シャーベッツの黒いTシャツを来たとは対称的とでも言うように、ヒステリックスの少しだけフリルが胸元についた紫の肩までしっかり出ているワンピースを着た赫は、捨てられたように置かれていた荷物の上に被さる、ざっくりとしたピンクのトレーナーに手を伸ばし、それを着た。
「あったかい」
「そりゃあね」
「陽が落ちてきたね」
「うん」
「あたしのこの黒い塊は、どうしたら吐き出せるの?」
「それでも、世界は、あんたは美しい」
「さっさとあんな下らない物、脱ぎ捨ててしまいたい」
「泣いてるの?」
「違う。笑ってるの」
 赫の肩が微かに震えていた。は再び寝転んだ。オレンジ色の空がある。違う、少しオレンジよりも黄味がかって…緑がかって?は、色についてボキャブラリーの無い自分の脳を少しだけ恨んで、そして、何かを知ればその分だけ世界の幅が広がる事を知っている自分を少しだけ幸福に思った。
「元々、逸脱という考えがおかしいのね。あたしがソレを口に出した瞬間に、ソレはあたし独りのものでは無くなるのよ」
「つまり、皆がソレと言うものを受け容れる容れない…とかじゃなくて」
「ソレというものは、一種の考えや事実として、既にソコに存在してしまうのよ」
「だから、どんなにソレを嫌悪していたとしても、知らない内にソレは自分の中に染み込んで、そしていつかはソレはジョーシキの枠内にある…と」
「ソレは、あたしの内に在る時にだけ、逸脱したモノでありえるのよ」
「…逸脱したモノを個性というのなら、個性なんていうものは存在しない」
「そう言いたいのよ」
 波の打ち寄せる音が遠くに聞こえる。今、世界は真赤で二人の体も赤に侵されていた。
赫は海を、は空をただ、眺める。そして、時は刻々と過ぎて去く。でも、彼らには時間はまだたっぷりあるのだ。そして、その時間を全て使う術を彼らは携えている。
そして、その術とは、丁度彼らにだけ有効。
「やっぱり、あたしは傲慢なのね」
「何かに責任をとらなければいけないのなら、君は一体、何をすれば良いのだろうね」
「自分の吐き出すものに責任を持たなければいけないのなら、あたし達は何も吐き出す事は出来ないわ」
 の咥えた煙草に火を点けてやりながら、赫は小さく深呼吸をした。太陽と月とを携えるという特別な時間の、澄んだ空気が、ニコチンに塗れた肺を洗浄する。
あたしの体内にある良質のものを全て全て全て吐き出してしまったら、どうなるのかしら…?砂と潮風でべたべたする髪を撫でると、冷たかった赫の掌が少しだけ温かさを帯びた気がして、赫はそっと自分の頬に手をあてた。
「…やっぱり冷たい」
「何が?」
「手が」
「白い月」
「三日月」
「猫の目のよう」
「生産的ね」
「そう?」
 赫は、変事の代わりに、の上に倒れ込んだ。心臓の音が聞こえる…赫は耳を澄ました。
研ぎ澄まされた聴覚は色々なものを吸収する。次々と。
波の音。海猫の声。風の音。雲の音。砂の音。赫の体内音。そして、の心臓。鼓動、鼓動、鼓動…。
「温かいね」
「温かいけど、重いよ」
「想いっていうのは、重い物なのよ」
「…どんな想いなの?」
「世界を美しいと想うの」
 は煙草を砂に突き立てて、体内の煙を全て吐き出した。
「お腹、動いた」
「悪質なものを吐き出したから」
 そっと赫の髪を撫でながら、は言った。の骨張った大きな手が赫の髪を撫でると、その赫の漆黒の髪はふらふらと揺れた。
いつの間にか、空を支配していた月が、のその細く美しい手に洗練された西洋の美術品のような陰翳を造る。
「歪みが生じているのよ」
「歪み?」
「きっと、全てが一筋縄でいかなくなっている。無意味に難解になっているのよ」
「ナンセンスだね」
 ナンセンス…赫は反芻して微笑した。頭を撫でているの手の重みは、意外な程、赫にはぴったりとはまり心地好く。
「だから、世界は美しいのよ」
「何?」
「こんなにも、世界は美しい。有効に何かを使う事すら出来ないのよ」
「海に来るつもりじゃあなかった…とか?」
「現実に存在するつもりじゃあなかった」
「天国に逝くつもりじゃあなかった」
「夢なんて見るつもりじゃあなかった」
「理想なんて持つつもりじゃあなかった」
「あんたと馴れ合うつもりは無い」
「その通りだ」
 は、実に可笑しそうに笑った。のお腹に体を乗せていた赫も、くすぐったくて、つられて笑った。
「ねえ、どこよりも安い宿屋って何処か知ってる?」
「墓場」
「穴を掘って、埋まるだけで永遠の安楽。永遠還元のプログラム」
「美しいものは深みを増して洗練されていくんだよ」
 赫のぞくっとする程に白い肌が月明かりに美しい。漆黒の髪。象牙の肌。瀝青炭の瞳。
「全て腐蝕して逝ってしまえばいいのに」
「そうしたら、どんなにか美しいのに」
「どんな醜いものも」
「あたしは無知なのね」
「無知で無い人間なんているの?」
「解らないわ」
 赫は上体を起こして、今度はの肩に頭を置いた。の吐息が耳につき。
「あたし達ってば、一回殺害されているのよね」
「うん」
「じゃあ、復活する事が可能ね」
「どうして?」
「復活する為には、死ななければならないのよ」
 赫はの体を抱き締めた。温かい。
 煙草の臭いと、薄いウルトラマリンの香り。そしての匂い。それらは赫の五感にぴたりとはまる。
 今、世界は暗闇で、一筋の光。銀色の天国ロード。
 でも、それらは全て一時で、だからこそ美しいとは言う。
 それらは全て、少しも完璧正確でない、だからこそ美しいと赫は言う。
「世界はこんなにも美しいのに」
「世界はこんなにも美しいのに」
「そして、全く汚い」
「汚いほどに美しい」

 仕組まれたように澄んだ空。翳りの無い月夜。気高い空気。
 こんな物じゃあない。本当に美しい物は、こんな物じゃあない。
 海と風と砂と切り裂かれたフィルムに赫と。
 今、世界は暗闇で、しっとりと降り注ぐ銀のダイナモ。
 半永久のカタルシス。

 それで、一体何を吐き出せば良いの?



end