手錠よりも脆弱な絆という現実。



手錠と幸福



 父は、あたし達に暴力を振るった。酔っ払うともう手が付けられなかった。母は、この現実から逃げるように発狂して家から消えた。父の暴力は更に激しくなった。
「ミカちゃん、大丈夫?」
 あたしは、胸を押さえてうずくまる姉の背中をさする。姉のミカは心臓が悪かった。
「大丈夫よ、マイ。あなたこそ、血が出ているわ…」
「大丈夫よ。薬を持ってくるわ」
 ミカの心臓の薬を持ちに立ち上がると目の前に傷だらけの兄のサトシが立った。
「薬」
 そう言ってサトシはあたしに水と薬を手渡した。
 サトシはミカの双子の弟で、あたしの兄。父は特にサトシに暴力を振るった。サトシはそんな父に歯向かいいつも傷だらけになっていた。
「ありがとう。サトシ、後で手当てをするわ。ねえ、父さんは?」
「酔い潰れて寝てるよ」
 そういうと、サトシは力尽きたみたく座り込んで静かに涙を流した。そんなサトシを見てミカは顔を苦痛に歪めながらも優しく抱き締めた。あたしは瞳に流れ込んだ血を涙で薄めた。
「マイ」
 ミカがあたしの頭にその華奢な手を乗せた。
 あたしは、それだけで幸せだった。ミカがいてサトシがいて。ただそれだけで。けれど、こんな現実の中でそんな小さな幸せさえ続く筈が無いのだ…。


「マイっ!」
 あたしは、霞んだ視界で声のした方を見詰めた。血液と涙の向こうに、ミカとサトシが見えた。病院に行っていた二人が帰ってきたのだ。
「マイ、どうして…こんな…」
 ミカが駆け寄り、あたしの手を握った。ダメだ…ミカの手の感触が無い。サトシの叫び声が聞こえる。父の悲鳴も。ああ…サトシが父を殴ったんだ…あたしは軋む体を何とか起こした。と、額に水が落ちた。
「サト…シ…?何てことを…」
 あたしは目の前にあるミカの顔を見詰めた。ミカは泣いていた。さっきのはミカの涙だったんだ…。
 そう思い、あたしは父とサトシの方をゆっくりと振り向いた。
 床に倒れている父。真っ赤に染まったサトシの腕。サトシの細くて長い指で柄を守られた包丁。真っ赤な包丁。玄関チャイムの音。人の声。誰だっけ?たしか大家さんと…誰?
「ミカ。サトシ。逃げて!」
 あたしは、殺人現場にまだ脳が対応しきれていなかった大家さんと警察官の足を掴んで叫んだ。一体、あたしは何を叫んでいるんだろう?
 あたしの声に、我に返ったのか警官が手錠を取り出してやはりまだ現実に対応しきれていなかったサトシの腕にそれをかけた。それに気づいたミカがサトシの手を引っ張った。
「待ちなさい!」
 警官は手錠のもう片方をミカの腕にはめた。
「ダメ!」
 大家さんを突き倒してあたしは、警官の足に飛びついた。
「ミカ、サトシ…逃げて…」
 逃げても、何もならない。
「ねえ、お願いだから」
 逃げたら、立場が悪くなるだけだ。
「後生だから」
 逃げて。

 血で滲んだ世界。真っ赤な世界。きっとこれはあたしへの罰だ。泣きながらあたしの名前を呼ぶミカ。そのミカを抱えて逃げるサトシ。あたしを振りほどこうとする警官。呆然と放心する大家さん。息絶えた父。
「それでも、幸せなのよ…あたし」
 もう、赤い世界さえも見えない。誰かの声が聞こえる。きっとミカとサトシだ。
 ねえ、あたしの名前を呼んで。あたしはそれだけで幸福。それだけで幸福。それだけで…。

 きっと、手錠の方が確かだ。



end