少し苦しげな顔にくらくらした。
 首筋に噛り付いた。雨と汗と人間の味がした。


衝動


 天気の悪い日だった。
 潮風が鼻につく。
 堤防の上を歩くと強風で落ちてしまいそうになって、上を向いた。
「詰まんねえな」
 思わず呟いた言葉に、意外に反応が返って来なくて隣りを歩く男を見た。
「槙ちゃん、なんか言ってよ」
 いつもならいらない事まで突っ込んでくる槙ちゃんは、俺が声をかけても、ぼーっとして海を見ていた。
「ちょい、槙ちゃん。無視すんなや、淋しいやん」
 槙ちゃんの肩に手をかけて揺すると槙ちゃんはそのまま力無く堤防から落ちた。
「槙ちゃんっ」
 俺は驚いて、堤防から飛び降りて砂まみれの槙ちゃんを抱きおこした。
 いくら高くは無い堤防で、下は砂だといえども落ちたら危ないものは危ない。
「槙ちゃん、大丈夫?ごめん、まさか落ちるなんて」
 抱きおこした槙ちゃんの体は思いの外軽くて、少しびっくりした。
「大丈夫」
 槙ちゃんが、俺の手を軽く振り払い起き上がり頭を振った。
 細かい砂がぱらぱらと落ちてきた。
「ねえ、朗」
 「何?」俺は、槙ちゃんに振り払われた手を見詰めながら答えた。海の音が異状に大きく聞こえる。
「俺と一緒にいるの詰まらないの?」
「何?」
 「詰まらないの?」槙ちゃんはもう一度言った。
 視線を上げ、槙ちゃんを見ると、彼も俺のほうを見ていた。俺を見上げるその双眸は大きく見開かれ、長い睫毛は、その瞳に影を作っていた。
 黒い雲の向こうで落ちかけた陽は、海の陰で僅かに切り捨てられた爪のように顔を出すだけ。
「ねえ」
 振り払われた筈の手。熟した陽を覆い隠す黒く分厚い雲。黄色の肌、少しだいだいがかって。苦しげに寄せられた眉根。素晴らしい陰影を作る白い喉に…。

 噛り付く。

「っつ……痛い」
 槙ちゃんの声に我に返った。
 重厚な空が気を違えたように雨を降らせていた。
「ごめん」
「なんで槙ちゃんが謝るの?」
 俺は何だか凄く悲しくなってしまった。
 首筋についてしまった赤い歯痕に指を走らせた。
 槙ちゃんを屈服させる妄想。お腹を減らした肉食獣のごとく槙ちゃんを貪る。俺は変態だろうか?けれど、ああ…もう止まない。
 雨と砂に濡れて、槙ちゃんを抱く。
「イタイ、イタイ、イタイ、イタイ…」
 強く強く抱き締める。遠くで近くで、槙ちゃんが泣く声が聞こえた。もう止まない。
「詰まらない訳無い。詰まらない訳無いのに」
 俺は叫ぶように吐露した。雨と波の音で何を言っているのか解らなくなった。
 その合間を縫って槙ちゃんの声が聞こえた。
「好きだよ、朗」
 幻聴、あるいは。

 その衝動。もう止まない。

足跡が消えても』さんに寄稿。