空は、アカク



 結婚したいと思った。きっと、彼ならあたしを幸せにしてくれるだろうと思った。あたしは家族とは縁がとんと薄かったから、彼があたしの大切な唯一人の家族になるのだと思った。
 けれど、現実はあたしの思うとおりになんか行きはしないのだ。
 あたしが願ったことが叶ったことは無かった。

 子供が出来た。彼は無表情に、別れよう…と言った。あたしは小さく頷いた。あたしはそれでも子供を生むことにした。彼は、きっと認知してはくれないだろう。そんな事はどうでもいい。
 少なくともあたしだけはそれでも幸せであるはずだ。
 でも、どうかこの子も幸せであると感じられるように。




「お願い、あたしを一人にしないで。お願い、あなたがいなくなってしまったら、あたしは一人ぼっちになってしまう。生きてはいけないわ」
 母が俺の背中にしがみついた。
 俺は、母が十八のときに産んだ子供で、俺はあと一年で、その時の母と同じ十八歳になる。
「ねえ、母さん…」
「母さん何て言わないで。もう何も出来ないような気がしてくる…」
「ねえ、亜月さん。お願いだから、その手を放して。俺は貴女のところにはいられないよ」
「ねえ、あたしを一人にしないで。死んでしまう」
「貴女なら生きていける」
 無理よ…。母は苦しそうに叫んだ。殆んど声にはなっていなかった。がらがらに嗄れた喉から搾り出される声はあまりにも痛々しくて、目の奥が熱くなった。
 十八で俺を産んだ母。息子の俺から見ても、母はとても魅力的で、美しい。
 母、亜月はそれなりに名の売れた小説家で、その美しい容貌と奔放な性格で小説以外でも話題が絶えない。有名芸能人や作家との交際の噂なんて日常茶飯事で、しかし彼女はそういう行為でしか自身を実感できない人間であるという事を知る人は数えるほどしかいない。
「いかないで…柚月。あたしにはあなたしかいないの…。あたし、嘘ばかり吐くけれど、これだけは本当よ。あたしにはあなたしかいない…」
 母の一重だけれど大きな瞳から涙が零れた。
 母は、とても強い人間だ。限り無く強い意志を持つ人間だ。彼女の意志が彼女の強い全てが彼女という人間を作り出している。俺は、彼女ほど、自分自身を自身で作り上げている人間を知らない。
「母…亜月さん。貴女はどこでも、どんな時でも一人で生き抜くことが出来る人だよ。貴女自身それを理解している筈だ」
 俺は母の腕を掴んで、床に抑えつける。
「だから、何だっていうの?」
 俺の左腕に母の右足が喰い込んだ。
「バカにしないでよ。あんたを産んだのはあたしよ。それに、あんたはまだジューナナなの。そのあんたが、どうしてあたしの元を去ると言うの?」
「バカにしちゃあいねえよ。俺といると、あんたは駄目になるんだよ。なあっバカにしちゃあいねえよ」
 俺は、右足も抑えつけた。何とも間抜けな格好だ。俺が笑うと、彼女は暴れた。
「ふざけるな、あたしは駄目になんてならない。あんたと一緒にいることが、どうしてあたしのマイナスになるってえのよ。あたしの胎の中で出来上がったくせに」
 母は俺の右腕に残りの左足でもって蹴り上げてきた。けれど、バランスを崩してまんまと背中から倒れこんだ。勿論、俺は寸前で手を離した。
「いってえなあ…。貴女、手負いの獣かよ」
「酷い。どうして手を離すの」
 腰を押さえて起き上がって、すぐに母は懲りずに俺を押し倒してきた。玄関脇にある洗濯機で頭を打った俺は、母の長い髪を引っ張って、押し返す。
「クソガキ」
 母は、いつも危機的だ。きりきりの線で生きている、そんな感じがする。一本の細い細い糸で彼女の神経は出来上がっている。
 母は、俺の鳩尾を蹴り上げる。俺は、母の頬を殴る。母は、俺の頭を殴りつける。
「貴女の為なんだよっ」
「アハハハハハハハハハッ、バカ言うんじゃあないわ」
 口の中が鉄っぽい。血の臭いは嫌いじゃあない。母は、血の臭いが大嫌いだと言う。生理の時の血の臭いで、母はいつも吐く。そして、狂う。
 母は俺を殴る。俺も母を殴る。蹴る。叩く。笑う。ただひたすら、言葉も発せずに。二人で揉みくちゃになりながら。
 俺は、母の両腕両足を抑えつけた。
「アホか。俺がいくらガキでも男だぜ。女の貴女が勝てるわけないでしょ」
 傷だらけの彼女は、もう暴れなかった。疲れきった顔で、腫れた眼で俺を睨みつけていた。傷だらけの俺は、そんな母の白く細い腕に食い込む自分の指の堅さに驚いた。
 母は、色んなところで、様々な関係を振り撒いてきたけれど、最後は必ず俺の元に帰ってきた。親だから、当然だというかもしれないけれど、少なくとも沙村井亜月はそういう性格の人間では無い。
「戻ってきて。どこにも、行かないで…」
 母は、静かに呟いた。
「どこにも行けないのは知っているだろう」
 母の泣き方は卑怯だ。喉の奥で苦しそうに切なそうに泣く。瞳を開いたまま瞬きさえもせずに泣く。そして、唇を噛み締める。

 顔と体中に傷テープと包帯をまいた母は、原稿を取りに来た高校生の時からの友人の担当編集さんに叱られていた。
「亜月。あんた、明日が対談だと知っての行為?最悪ね」
「必死だったのよ。本当に、必死だったのよ」
「フザケルナ。その顔で対談する気?バカじゃない?いいわ、その顔でその格好で恥をかけばいいわ」
「恥なんてクソクラエ。由井も、編集長に絞られるがいいわ」
 二人は大きな声で笑った。冷蔵庫の前で座り込んで牛乳を飲みながらその光景を見詰めていた俺を見つけた由井さんは、ニヤリと笑った。
「男前があがったわね、クソガキ。手間を増やしやがって」
「由井さん。そんな汚ねえ口利いていると旦那に振られるぜ」
「亜月とあんた以外には使わないわ」
「アハハ」
 厭味な笑い方ねえ…由井さんは俺を小突いた。
 由井さんは、俺が十三の時まで一緒に住んでいた。俺達の住んでいるマンション”520”という番号の下には、四年前まで”沙村井亜月・由井美樹子”そして、ボールペンで書かれた”柚月”という表札が入っていた。でも、四年前に、彼氏が出来た由井さんは「同棲するわ」と言ってこの小さな要塞を後にした。そして、三年の同棲生活を経て去年結婚した。ガキはいない。計画的な家族計画を実行するそうだ。母は、そんなのあんたには不可能よ、と鼻で笑ってバカにしていた。
 母と由井さんは大学二年の時から同居し始めた。だから、俺は母と由井さんに育てられたと言っても過言ではない。
「明日、土曜日でしょ。柚月も来る?対談が終わった後に久々に食事に行こうよ」
 由井さんが俺の頭を撫でた。この人が本当の母親だったらどんなに楽だろう…と思った。


 その日、母はその傷だらけの姿で対談場所であるホテルに出向いた。
 当初、延期をしようとの話も出たのだが、対談相手の俳優の「”沙村井亜月”ならそれも良いんじゃないですか、面白い」との一言でそのまま決行することに決まった。
 対談相手は、ドラマやCMでよく見る女性に人気の若手俳優・大塚智という男で、俺はあまりこの男が好きではなかった。俺より十と少し上の大塚智は、顔は俺から見てもカッコイイし雰囲気も清潔な男らしくてそういうのは嫌いじゃあない。何というか、セーリテキなものだ。ドラマなんかで彼を見るたびに、嫌な気分になる。そういうのは、少なからず誰にでもあるはずだ。
 俺は、母と大塚智と由井さんの上司である編集長、その三人の会話をホテルに入る前にコンビニで買ったアセロラドリンクをペットボトルさら飲みながら聞いていた。
「俺は、小説よりも漫画を読むガキだったんですよ。『ドラゴンボール』とか『スラムダンク』とかね」
「あたし、小説家だけれど小説はあまり読みませんね。漫画のほうが好きです」
「読まないんですか、小説」
「全く読まないという訳じゃあ無いんですけど、でも、漫画の方が好きです。楽だし」
「でも、俺、ドラマとか映画とかで”原作”ってよくあるじゃないですか。あれを読み出してから今更ながらに本を読むようになりましたね。今更ながらにソーセキとかダザイとか」
「夏目漱石は『こころ』しか読んだこと無いです。十代の頃はそういうのも読みましたけど…小説家になってからは…読まないですね、あまり…。読まないっていうか、読むのを恐れてるっていうか…影響を受けるのが恐いんですよね。あたし流されやすい人間だから。…勉強になるっていうのは判るんですけど。あたし、向上心って言葉嫌いだし」
「ああ、判ります。俺も、他の人が出てるドラマとかあんまり見ないですから。演技が俺のものじゃなくなってしまうんじゃないかって…向上、したくないんですか?」
「あたし、ドンゾコにいないと書けないから」
 ドンゾコ…演技みたく笑う三人を遠巻きに見ながら俺は、大塚智のマネージャーさんに貰った長久堂の栗羊羹を齧りながら”ドンゾコ”と言う言葉を頭の中で反芻した。甘い羊羹と暗い”ドンゾコ”。どうやっても似つかない。行き着かない。母が買ったパックの緑茶を飲む。
 仕事をしている母を見るのは好きだ。彼女が、”小説家・沙村井亜月”の顔になるとき、いつもより凛々しく見える。そして、少しだけ弱くなる。
「ねえ、由井さん。何でこの二人なの?」
 俺は、疑問に思っていたことを由井さんに小声で聞いた。由井さんは、そんな事も知らないの?という顔をして教えてくれた。
「うちの雑誌で投票を募った”今、注目する芸能人・作家”っていう企画の中の対談よ」
 へー。そんな事、説明も受けてないよ…と思いながら、俺はふかふかのソファにもたれかかった。
 なんだか、詰まらなくなってきたので俺は耳にイヤホンを突っ込んで、母達のほうをぼうっと見ていた。少しして視線を上げると大塚智と目が合った。俺は気のせいかと思い、一回ゆっくりと瞬きをしてもう一度、大塚智を見た。…………嫌な目だ。
 俺は、レディオヘッドのギリギリの音を遠くに聞きながら少しだけ音量を下げて二人の会話に耳を立てた。
「そういえば、今、息子さん来てらっしゃいますよね」
「ああ、柚月。ええ」
「そっくりですね。いつもこういう時は一緒に?」
「偶にね…。キレイな子でしょう。大塚さんみたいに男らしいってタイプじゃあないわね。でも、大塚さんと目がそっくりだわ。大きな二重の目。天性の女殺しの目だわ」
「アハハ、何ですかそれ。でもいいなあ、沙村井さんのような若い母親って。俺、四人兄弟の一番下だったから、うちの母親ってば俺が高校生の時にはもう婆ちゃんで」
「でも、大塚さんを産んだお母さんなら綺麗な人でしょうに。それに、若いことで良い事って特に見当たらないもの」
「幾つで出産したんでしたっけ?」
「十八歳の時ね。息子も、あの時のあたしと同じくらいの年齢だわ。息子は幸せじゃあないかもしれないわ。あたし、デタラメな女だから」
「傷だらけの姿とかカッコイイですよ」
「アハハ、もうトレードマークみたいなものよ」
 俺は、もういちど大塚智のほうを見たけれど、もう視線は合わなかった。替わりに母と視線が合った。母は小さく微笑んだ。あれはなんだったのだろう。ああいう目は好きじゃない。けれど、母はああいう目は好きなはずだ。何かを求めるようにけれど、求める事に疲れた大きな瞳。

 由井さん曰く、その後の母と大塚智との対談はサンザンナモノだったそうだ。母は、まともに答える事はしなかったし、大塚智も飽きていたらしい。「元々、この二人で対談すること事態無理だったのかな…」編集長が呟いていたのを帰り際に聞いた。

 三杯目の真っ赤なカシスソーダを飲み干した由井さんは実に楽しそうに笑って、軟骨の唐揚げを頬張った。
 由井さんと母と俺と三人で一緒に食べに行くことはよくあって、そういう時は大抵、居酒屋だ。母は、本当によく飲む。まるでジュースを飲むみたいにカクテルやチューハイを体内に流し込む。
「あ、由井。次何飲む?」
 空になった由井さんのグラスを見て、母はジントニックを飲み干した。
「んー、烏龍茶かな…」
「チューハイ?」
「違う、ただの烏龍茶」
 由井さんの言葉に母は顔をしかめた。母はまだアルコールを摂取するつもりなのだ。仕方なく、俺はビールを飲み干す。
「亜月さん。俺、カシスオレンジ」
「オッケー、オッケー。柚月は話がわかるわ。あ、スミマセン…」
 嬉しそうに注文をして、煙草を咥えた。俺は、火を点けてやる。
「サンキュ。柚月もいる?」
「ああ、アリガト」
 俺は、母からマルボロを一本受け取って火を点ける。それを見ていた由井さんが、自分もセーラムに火を点けた。
「亜月、あんた柚月を早死にさせたいの?まだ未成年でしょうに」
「だって、一人で飲むのは寂しいじゃない。それに、受動喫煙するのなら、吸ってしまうのも同じだわ」
「…微妙ね」
 何それ。母は、来たばかりのソルティードッグに口をつけて笑った。
 こういうのは、何だか由井さんが一緒に住んでいた頃に戻ったみたいで楽しい。俺は、あの三人で住んでいた頃の雰囲気というか、空気というかそれが好きだった。母がいて。由井さんがいて。俺がいる。
 それは、俺が物心ついた頃から当たり前のようにそこにあったから、由井さんが出て行ってしまったとき、正直寂しかった。捨てられてみたいで悲しかった。
 だから、今でも由井さんのことは家族だと思っている。由井さんを独り占めする由井さんの旦那に俺も母も嫉妬している。タブン。
 母は、由井さんに依存している。依存、という言葉は嫌いだけれど、他に言葉を思い浮かばない。でも、人は誰しも誰かに依りかかって生きてるものだ。俺だって、母に依りかかっている。母から、俺と由井さんを奪ったら、一体何が残るだろう。彼女はどうなってしまうだろう…。あの時、俺は母に強く腕引かれて母の元を去る事を辞めた。
 あの時、俺は本気だった。ずっと、考えていた。母は、いつかは母の元から離れていく俺に依りかかっていては駄目なんだと。けれど、沙村井亜月は誰かに依存せずとも生きていく事の出来る人間だ。誰にも依存せずに、一人で生き抜くことが出来る女。それが沙村井亜月だ。そういうタイプの人間は少ない。そういう人間は何だって出来る。しがらみになるものが何も無いから。俺は、彼女の足枷にしかならない。
「あ、由井。寝ないでよ」
 酔っ払った由井さんが眠っていた。母はそれを揺り起こす。小さくうめいて由井さんは眠ってしまう。
 その後、母は由井さんの旦那を呼び出して更に数杯、旦那を相手に飲んで由井さんを預けて二人で帰った。帰り道、母はコンビニでチューハイと発泡酒を数本買い込んで、それを飲みながら歩いた。
「ねえ、柚月。あの日、あたしの元を去って、どこに行くつもりだったの?」
「ああ、結城の所」
 結城は小学校からの友人だ。男だけれど可愛い感じで、男女問わず人気があるし性格もいい。彼は今、一人暮らしをしていた。だから、よく俺の家にも来る。母も結城のことはよく知っていた。
「バカね。結城って結城辰哉でしょ。うちから十分と離れてないじゃない。バカね」
「俺、あの男…大塚智って好きじゃないな」
 あの時のあの瞳を思い出す。じっと俺を見た大きな瞳。ゆらゆらと何かが奥で光っていた。強い目だ。けれど、少しだけ疲れている。
「あれは、イイオトコね。天性の。柚月とそっくりだわ。あの瞳なんて特に、兄弟みたいに」
「ゲー」
「そっくりよ、本当に」
 氷結果汁を飲みながら、母は空を仰いだ。冬の空は澄んでいて、星がゆらゆらと光っている。俺に判るのはオリオン座くらいだ。それも曖昧で、たぶんオリオン座程度。
「あたしね、柚月が思うほど強い女じゃあないよ。あたし、誰かと一緒にいないと本当に耐えられないんだ」
「…詭弁だね。貴女は足枷をいつも取り除こうと躍起になっているくせに」
 煙草に火を点けて思い切り吸い込む。冷たい夜の空気さら。体が洗われる。体内を冷たい空気が侵蝕する。
「バカ…あんた、自分のこと枷だと思うの?あたしの?バカね」
「でも、荷物でしょう」
「大切な荷物よ」
 母は、俺の咥えていた煙草を奪い取った。自分のすえよ、俺は何だか恥ずかしくなって悪態をついてみたりする。
 急に母が走り出した。俺は追いかける。
「ちょっと、待てよ」
 俺の声にも振り向きもせずに母は、走った。追いかける、俺。母の持つ缶がビニール袋の中で鈍い悲鳴をあげた。
家の近くの児童公園の前で立ち止まった母は、煙草に火を点けて深く深呼吸をしていた。
「…あたし、ずっと走っていたわ。今も走ってる。立ち止まるのは恐ろしいから。立ち止まるのは嫌いだから」
 立ち止まると、もう前には進めない気がするの。振り返らずにひたすらに走るわ。道は一つで、必要な物は何も無いと思っていたわ。でも、今は違う。道は一つだけれど、どうしても捨てられない大切な荷物があるのよ。それはどんなに辛い時でも手放すわけにはいかないのよ。だって、手放してしまったらあたしは走る事に疲れてしまうから。それがあれば、あたしはいつまでも走っていられるわ。一本の道を間違いなく走っていられるわ。
 星は、ゆらゆらと光っている。俺に判るのはオリオン座くらいだ。それも曖昧で、たぶんオリオン座。
「唯一つ、あたしが後悔するのは…連れてきてしまった大切な物が、それで良かったのか、ということ。本当に、道連れにしてしまって良かったのかということ。唯それだけ」
 高々と煙草と缶を放り投げた母は計算された素晴らしい放物線を描くそれらを落下のその時まで何一つ見逃すまいと、見詰めていた。
 ああ、なんて美しい人だろう。この人は、なんて頼り無い人なんだろう。一人で立っているのも不思議なくらいだ。あの細い足で、細い腕で、細い体で全てを支えてきたと言うのだ。俺は、生まれて初めて母を母として見た。
 俺は、今まで母を母親として見た事が無かったのだ。俺の中で母は、母ではなく一人の女・沙村井亜月だった。母自身が、そう俺を育ててきたということもあった。また、由井さんと母の二人に育てられて、そういう感覚が抜け落ちていたといのもあるだろう。
 母、沙村井亜月は美しく頼り無い人だ。俺は、落下した煙草から立ちのぼる煙を見詰める母を抱き締めた。
「どうしたの?柚月」
「ゴメン。俺、ずっとここにいるから」
「ふふふ、何言ってるの?いつか出て行ってしまうくせに」
「それでも、今だけはずっとここにいるから」
 抱き締めた母は、小さかった。細かった。これ以上強く抱き締めたら壊れてしまいそうで。それでも、俺は強く抱き締めた。壊れたら、俺は見苦しく這い蹲ってでも我武者羅に拾い集めよう。
「俺は幸せだよ。とても」
「そう」
「貴女は?」
「あたしは、昔から幸福な道を歩いているのよ」
「良かった」
「何があっても、心は変わらないから」
「幸福な人だ」
「そうよ」
 もっともっと強く、俺は母を抱き締める。不意に母が俺の背中に手を回してきた。そして、強く抱き締めた。
 俺は、二度と道を違えたりしない。もう、二度と。唯一の道を突き進もう。我武者羅に、只管に。見苦しくたっていい、恥じることなど何も無い。
 もう、バカを見るのは懲り懲りだ。そう思って、俺は笑った。母を強く強く抱き締めながら。
 あの時、あの大塚智の目。あれは俺の目だ。今判った。伺いを立てていた事には間違いは無いのだが、あの瞳の奥には俺がいた。ゆらゆらと。俺は、愚かだ。今度、大塚智の出ている映画を見直してみようと思った。
「柚月、何を考えているの?」
「貴女の事」
「嘘ばかり」
「そう、嘘ばかり。でも、貴女は虚構を現実にする事が出来る人だ」
「何それ」
 寒い。きっと、一度とか二度とかそういう世界なんだろう。凄く寒い。こんな中で死ねたら幸せだなあ…俺はアホみたいに考えた。母の額に額を押し付ける。冷たい。
「冷たい。柚月、家に帰って温かいお茶を入れてお風呂に入って眠ってしまいましょう」
「うん。朝、陽が昇ればきっと少しは暖かくなるから」

 手を繋いで歩いた。
 幼い頃に戻ったみたいだった。でも、あの頃よりも空が近かった。あの頃よりも星が明るい気がした。
 星空は、燃える。
 熱く、激しく、燃える。
 俺たちを抱く。激しく。優しく。
 眠りにつけ。全てを包んでやろう。抱き締めて、キスをして、眠れば夜の帳は全てを懐き、全ての人に幸福を与える。
 眠りにつけ。走り続けるのには少し疲れただろう。少しだけ休むがいい。
 少しだけ休むがいい。
 眠りは全ての人に平等だ。平等に幸福を与える。
 深い闇は燃える。
 熱く、激しく、アカク。






 さあ…朝陽が昇る。