この空は天井のようだ。
 空を見上げても星一つ無く、どんよりと鉛色の雲が月を隠す。何も無い。本当に何も無い。
 いつの間に、こんなにも何も無くなってしまったのだろう。空っぽだ。ここは空っぽだ。


空っぽの空に星



 酒を飲む。もう飲めないという限界を感じた。
 それでも、さらにアルコールを流し込む。天地が崩壊する感覚を覚える。足元がぐらついた。床に置いたつもりのグラスが倒れ、僅かな透明な液体がフローリングの床に広がった。
 立てないと思う。
 室内に突如として現れることになった水溶液の水溜りだ。埃が浮いている。エアコンからの風で、埃はふらふらと水溜りを泳ぐ。
 喉の奥に酸っぱさが込みあがってきた。吐きたい。
 吐きたいと思う。隣に眠る女の体を抱き寄せる。女はだらしなく体を横たえたまま小さく呻き声を上げた。女も酒を飲みすぎて意識を無くしていた。数時間前に吐いて、そのまま泥のように眠った。
 女の体は意味無く半裸で、さらけ出された下半身に手を伸ばす。抱き寄せた手を放すと女の体は床に音を立てて落ちた。
 女は起きない。
 構わずヴァギナに手を伸ばす。女のそこは乾いていた。指を舐めて、再びそこに手をやる。ダイレクトにヴァギナに指を突っ込む。女はようやく目を開けた。
「何してるの?」
「なあ、気持ち悪いんだけど」
「は?」
「気持ち悪い。吐きたい」
 女は、腰を動かして指を抜いた。少しだけ濡れた音がした。
「トイレに行けよ」
「うん…」
 曖昧に頷いて、重たい体を引きずるようにしてトイレに向かう。
「祐司、吐けた?」
 女が、煙草に火をつけながら言った。
 祐司は便器を抱えるようにしてうずくまる。吐いていた。酸っぱい臭いが鼻につく。
 女は酒を呷っていた。数時間前に吐くほど飲んだことを忘れているようだった。立て続けに焼酎を呷る。グラスの半分以上を占めた焼酎にポットからお湯を注ぐ。それを三杯飲んだところで、祐司が帰ってきた。
 女はデカイ窓から空を見ていた。煙草を吸いながら酒を呷る女の後姿に、祐司は微かに欲情していた。もしかしたら、女の後姿ではなく、窓越しの空にかもしれないが、確かに欲情をしていた。
「口、酸っぱい」
 祐司の言葉に、女はお湯割の焼酎を差し出した。
 構わずそれを口にし、一気に飲む。
「はは。気持ち悪いな」
「吐いたじゃん」
「うん。吐けた。なあ、あんた空好きか?」
「は?意味不明」
 女は銜えていた煙草を軽く噛んで、声を立てて笑った。白い歯が、茶色のフィルターを歪ませる。
 キャミソールを着て、下半身は何も着けていない。女はそれを気にもしない様子で胡坐をかいていた。黒い茂みが、女の性器を微かに隠していた。しかし祐司はそれには欲情しない。
「俺、空好き。でもさ、ここの空には何もねえのな。俺の知ってる空と同じ空のはずなのに、何もない」
「昔からこうだよ。夜だからって、星なんかない。月だって見えないよ」
 何が面白いのか、女は再び声を立てて笑う。
 祐司は、女のこの気違いみたいなところが好きだった。まるで何かの発作のように笑う。綺麗な顔が歪む。少しだけ醜悪になる。そんな女の顔が綺麗だと思った。
「ねえ。酒が切れた。おまえ飲み過ぎだよ。わたしの分が無い」
「あんただって、飲んでたじゃないか。金くれよ。買ってくるし」
 女はヴィトンの財布を投げてよこした。
 それを上手くキャッチした祐司は、コートを羽織り、くたくたのブーツを履く。「行って来るし」と言って、玄関で振り返ったが、女はやはり空を見て煙草を吹かしていた。
 人工物一枚隔てた空は、重苦しさを増している。女の白い背中に、濃い茶色の髪に、その空がまとわりついて見える。


 幼い頃、宇宙のことばかり考えていた。
 今、見ることの出来る空の遥か向こうの世界のことばかり考えていた。
 たくさん本を読んで、星の名前を覚えて、まだ見ぬ世界。誰も知らない星。見たこともない生物。まだ人類が立ったことの無い星に降り立つ。そんな感覚を想像し、いつかあの空の向こうに行きたいと思いを馳せていた。
 しかし、祐司に宇宙に行くだけの器量は無い。所詮、夢だ。それでも、空を仰ぐことは止めなかった。
 空ばかり見て過ごす生活。非生産的な生活。もしかしたら、祐司は空を夢想することが好きなだけであって、そこに行くことに興味は無かったのかもしれない。
 女の名前は宙といった。宙と言う名の女の名に欲情した。女は、美人だったけれど、そこに欲情はしなかった。やはり空に欲情した。女というものと、空はどこか似ていた。
 祐司の欲望を受け入れてくれる。空も宙も。
 祐司の儚い夢想を受け入れた。祐司の夢想の捌け口はソラだ。星一つ無い空だ。
 女は、そんな祐司を見て笑った。女の笑い方は、ひどく発作的で痙攣するように笑う。綺麗な顔を歪ませて笑うから、いやらしい感じがした。一般的に見たら、女はひどく扇情的だ。男の欲望を掻き立てる。そんな容姿と雰囲気を持っていた。
 だから、女に欲情しない祐司を女は喜んで受け入れた。女に対する欲望を持って、女を見ない祐司は女にとって珍しい生き物だった。その生き物を飼う。飼われてばかりだった女にしたら、面白い遊びだ。
 女は、窓から見る世界が全てだった。親に飼われ、男に飼われ、女は窓から世界を眺めていた。ガラス一枚隔てた世界を愛していた。ガラス一枚隔てていない世界は異様だ。ライブの世界は、酒以上に酔う。それは、アルコールで得られる酔いとは違って、気持ちの良い瞬間など無かった。そこでは、女が異質なのか、世界が異質なのか。
 祐司の仕入れてきた酒から、ビールを選んで飲む。少し苦い液体が喉を潤わせた。
 狂った体は、アルコールを飲み下すと、しんと冷たくなった。
「ねえ。この空は、世界はひどく冷たくて、あんたは空しくなるかもしれない。それでも、この空があるから、わたしとあんたは出会ったんだ。それだけで全ていい気がしない?」
 女は明らかに酩酊していた。下劣な言葉を紡ぐその口から、初めて零れた言葉に、祐司は笑った。女のように。
「笑うなよ」
「あんただっていつも笑うじゃないか」
 しんと冷たい女の体を抱き寄せる。女は、いつの間にかしっかりとジャージを穿いていた。けれど、構わずその奥に手を伸ばす。
「あんたは、ひどく冷たい体をしてるな」
「そう?」
「ああ。冷たい」
「冬だから」
「春でも夏でも冷たかった」
 そうだったかしら。女は静かに微笑んだ。こういう顔をした時の女は美しい。
 酒を呷った女の喉が上下した。殆ど部屋から出ないせいか、恐ろしく白い喉だ。哀れな白さだ。視線に気付いたのか、女が低く笑った。
「何も、悲しいことは無いわ。わたしは幸せなんだから」
 幸せ。
 女の言う幸せとは一体何なのか。一人狭い部屋でガラス越しの空を眺める。女の見る空は切ないほどに何も無い。薄曇った空しか知らない女。空虚な胸がつんと痛んだ。
 空っぽから逃げ出すように滑り込んだ。女の腕は冷たかった。冷たかったけれど、確かにいつもそこに在る。
「体中が全てアルコールに溶けた気分よ。あんたの手は温かいから、勘違いしてしまいそう」
「勘違い?」
「そう」
 女はそれ以上何も言わずに、煙草に火を点けた。細く立ち上る煙は、エアコンの風で掻き消される。
 そうだ。これは勘違いだと、女は何度も繰り返す。反芻した言葉に切なくなる。しかし、これは勘違いなのだ。女だけの静かな幸福に侵入してきた男は、女の幸福に僅かに変化を与えたけれど、それを勘違いしてはいけない。
 いつか男はここから出て行くだろう。女以上の宇宙を見つけたら。
 女は宇宙ではない。彼の望む空を、女は持っていない。女の元に男を繋ぎとめているのは、ただ女の名だけ。
「俺は、勘違いでもソラが好きだと思う」
 それは、どちらのソラなのか。煙を吐き出し、固く目を瞑る。メンソールで喉がしんと冷たく、冷たい指先がだるい。
 元々何も持っていなかったのだから、何も恐れることは無い。元々あの空には何も無かったのだから、今更何を望むと言うのか。
 物を得るという事は恐ろしい。一つを手に入れると、次を望む。
「俺は、もっとたくさんの物を見ていた筈なんだ。けれど、今の俺にはソラしかない。他は本当に空っぽで。あのソラを手放した時から、きっと俺には何も無くなってしまったんだ」
 閉じた目。長い睫毛が頬に薄い影を作り、少しだけ震えていた。それが切ない。それが愛しい。

 この空は天井のようだ。
 空を見上げても星一つ無く、どんよりと鉛色の雲が月を隠す。何も無い。本当に何も無い。
 いつの間に、こんなにも何も無くなってしまったのだろう。空っぽだ。ここは空っぽだ。

 けれど、女の見ていた空は、天井のようでは無かっただろう。それは男が天井だと感じたそれにも関わらず。
 何も無いと、空っぽだと思っていたものを見て、幸せだと感じる女がいる。
 その女は、宇宙の名前を持つ。
「あんたが幸せだと言うのなら、俺も幸せなんだと思う」
「ここには、何も無い。あんたが愛しているものは何も」
「酒と煙草、ガラス越しの狭い空。…あとはあんただ、宙」
 ソラ、空、宙…。どれも同じ発音だ。けれど、間違いなく祐司は「宙」と言っただろう。
 女は笑った。
 高々と笑った。煙草の灰が、グラスに注がれた液体の中にぽとりと落ちた。
 何もないということは無い。本当に何も無い世界があるのなら、連れて行って欲しい。祐司は笑った。
 暗闇には闇がある。星一つ無い空には雲がある。閑散とした部屋には女がいる。
 そう。

 空っぽの空にも星はある。




end