四散



あたしの体は、夜の風に溶けて四散しました。

切り捨てた爪の様な月が、鉛色の雲に抱かれて、浮いては消え浮いては消え…あたしを惑わしました。
苔色の夕焼が、玉蜀黍の群生する畑を、深い深いダークグリーンへと変えました。
南部風鈴が、雨の前の激しい風に叩かれて、絶え間なく、その高い音を響かせていました。
蚊取線香と、セーラムの煙が、あたしの体に纏わりついて、あたしをくらくらさせました。
夜光灯が路上を照らし、激しい風が月を隠す。
あたしの体は、そんな夜に四散したのです。

「風鈴、良い音だね」
「まあね」
「買ったの?」
「貰た」
 あたしは、嵐のような強い風に叩かれて、激しく鳴る南部風鈴の音に耳を傾けた。
「あ、月が出たよ」
 キレイな三日月が、夜の闇の中にくっきりと浮き出た。
「ねえ、浩次くん。月が綺麗だよ」
 あたしは、関心を示さずにヴラウン管をぼんやりと見ている浩次くんの手を引っ張った。
「ねえ、ほら月が……隠れちゃった……」
 くっきりと浮き出ていた月が、今はもう雲の陰に隠れて薄い光を漏らすだけ。
「浩次くんが早く見ないからだよ」
 あたしは、責めるように言う。
「別に、月なんかに興味はねえよ」
「でも…スゴクキレイだったんだよ」
「……ほら、未来。月、出てるやん。…キレイやなあ」
「いいよ、別に…無理しなくて」
 あたしは、とって付けたような浩次くんの言い方が気に入らなくて、大きな声を出してしまう。
でも、急に大きな声を出した所為か、喫っていたセーラムの煙で咳き込んだ。
何だか、すごく悔しくなって、涙が出てしまう。
「未来、何も泣かんでも…」
「浩次くんは何も判ってないわ」
「せやかて…何を判れって…」
「あたし、浩次くんのその方言、好きよ」
「……アリガト」
 完全に困惑した浩次くんの顔は可愛い。きっと、本人に言ったら怒るんだろうな。
あたしは、浩次くんの飲んでいた残り僅かなコークを飲み干した。炭酸の抜けかけたコークは何だか空っぽで、少しだけ安心した。
「ゴメンね、浩次くん」
「俺かて悪かった」
 あたしは、もう一度、空を見た。月は、千切れ雲を急かす風で見え隠れを繰り返していた。
「未来、蚊に刺されるよ」
「大丈夫よ、蚊取線香を炊いているもの…ねえ、あれが夏の大三角形でしょう?」
「せやな。で、あれが…北極星」
「浩次くんは物知りね」
「煽てたって何も出んよ」
 ベランダに体をすっかり乗り出していた浩次くんは照れ臭そうに笑った。
あたしは、このまま体が風に溶けて、浩次くんとひとつに熟れれば好いな…なんて思う。
「あ、火…要る?」
 セブンスターを取り出した浩次くんの口元にライターを持っていく。こんな時のあたしは結構気が利くと思う。
「サンキュ」
 着火の鈍い音がして、炎が煙草を炙る。
「あたしはやっぱり、マッチの方が好きだな」
「こない風じゃあ、マッチは消えてまうやろ?」
「うん。だから困る」
 あたしは、自分の煙草を取り出して火を点ける。メンソールのセーラムの煙を体の奥まで吸い込む。
あたしの体は、今に、ニコチンとタールで一杯になるんだわ。
「あたし、きっと肺癌か喉頭癌で死ぬと思うの」
「ああ、よう喫うからなあ」
「家、癌家系だし…」
「なら、俺かて、癌で死ぬんちゃう?」
「どうして?」
「俺んとこも癌家系やから…祖母ちゃんも祖父ちゃんも、叔父さんも癌で逝ったし」
 月は無い。強い強い風が、南部風鈴をけたたましく鳴らす。
 遠くに、住宅団地の光が見える。薄黄色の蛍光の光は、どこか淋しげだ。玉蜀黍の葉が、痛々しげに曲がる。葉擦れの音が涼しげだ。
「明日は、また雨ね」
「そだね」
「あたしね」
「うん」
「このまま、この風に、あたしの体が溶けて、四散してしまえば好いと思ったの」
「どおして?」
「そおしたら、きっと、浩次くんの一番近いところに居られる気がするの」
「俺は、生身の未来の方がええなあ」
「何で?」
「触れられるから」
 あたしは、空を見上げた。雲の隙間から、微かな月明かりが零れている。
「あたしは、浩次くんの中まで浸透できると思ったの」
「俺は、未来の中に入る事が出来るから、そおゆうのはあんまり感じないんかなあ」
「…あたしは、そおゆう意味で言ったんじゃあ無いんだけどな」
「わかっとるよ」
 あと少し。
 あと少しで、月が顔を出す。
「浩次くんは意地悪ね」
「未来ほどでは無いと思うで」
「そんな事ないよ」
「なあ、未来…しよ」
 ほら。
 あと少し…。
「浩次くんは、いつも結局はそれね」
「ええやん。俺らしゅうて」
「うん。良いね」
 軽くキス。
 ほら、あと少し。
 あと少し。
 あと少し。
 あと少し。
「泣いちゃいそうだわ」
「何で?」
「月が…」
 ほら、月が顔を出す…月が……
 嗚呼……隠さないで隠さないで……
「あああああああああああああああああああああああああああああああああああ…」
「泣かんといてや、泣かんといてや…俺かて苦しゅなるやん…未来」
 浩次くん、あたし、四散しそうなの。
 だって、だって、だって…

 ガシャッ。

「風鈴、落ちてしまったなあ」

 あたしの体は、結局、四散できずに、終わった。
 あたしの体は、蚊取線香と、セーラムと、汗と、浩二くんの匂いに繋ぎとめられたんだ。
 多分。



end