色彩の宇宙



 素晴らしい時ばかりが現実じゃあない。だから、あたしは今こんなところにいる。
 ここはとても暗くて。真っ暗で。あたしには一体何が本物かも解らない。けれど、それでもあたしは…だってあたしはあたしの中身をぶちまけなければ生きてはいけない。
「美芽、またこんな暗闇に…。好きだなあ」
「…何だ、黒哉か。灯り…漏れるから、早く閉めてよ」
 黒哉に屋根裏の扉を閉めることを促して、あたしはまた絵の具を絞りだす。あたしの手は絵の具でどろどろになる。
 黒哉はムカツクくらいのらりくらりと屋根裏によじ登ってきた。
「なあ、美芽。こんな暗闇に男といていいの?ヤベェよ、俺襲うかもよ?」
 あたしは全く無視して、屋根裏を叩くようにあたしの中身をばら撒く。屋根裏中に。筆を使い、手を使い、脳を、あたしを……。
 不意に腕を掴まれ、あたしは床に倒れこんでしまう。アクリル絵の具の匂いがした。
「聞けよ、美芽」
「邪魔よ。ガキみたいな事しないで」
「お前のがガキじゃねぇの?なあ、家だけじゃあ飽きたらず学校の天井裏にも描いているだろう?」
「描く事を止めるなんてことをしたら、あたしは死んでしまうわ」
 黒哉の表情は読み取れない。けれど、息が荒い。何か、あったのだろうか…?
 黒哉は、その名前とは裏腹に派手な容貌をしている。色を抜かれた金色の髪、二重の大きな瞳、高い背。でも、この暗闇では何の意味もなさない。
「黒哉。大丈夫よ」
「何が?」
「何かしら?」
「ケケケケ…」
 黒哉が下品に笑った。暗闇の中でも近づけば黒哉の表情が見える。その笑い声に反して、少し苦しそうな顔をしているように見えた。
 昔は、黒哉の髪はその名の通り黒かった。そして、全身に青黒い染みが巣食っていた。
「美芽、何を描いてんだ?なあ、見せろよ」
「描いてないよ。描いている訳じゃないのよ」
 ライターで灯りを燈そうとした黒哉の手を包むようにして止めた。
「もう紙の上には描かないの?」
「紙の上に描くほどのものではないわ。人に見せれるものじゃあない」
「まるで、俺の体の痣みたいだ」
 あたしは、起き上がり黒哉の体にそっと触れた。触れただけなのに、黒哉が低くうめいた。
「黒哉…痛いの?怪我、しているなら下で手当てを…」
「あ…美芽…お前絵の具だらけの手で触っただろう。クソ、着替えなきゃ」
 黒哉があたしの上に覆い被さった。
「どうしたの?痛むの?」
「俺、お前のそう言うところ好きだぜ。まあ、その程度だけれどな」
 やっぱり息が荒い。あたしは黒哉を引き摺る様にして屋根裏から降りた。まるでずり落ちるように。
 屋根裏から降りる時、入り込んだ僅かな光。黒哉が呟いた言葉はきっと一生忘れない。

 光のある場所に出てあたしは驚いた。
 黒哉の体は真っ赤で、あたしの手はカラフルで…。屋根裏に昇る為にあたしが台に使うあたしのベッドも赤く染まっていた。
「黒哉…?」
 あたしは、黒哉の着ていたトレーナーをまくりあげた。けれど、黒哉には黒い痣と擦り傷しかなかった。
 黒哉のその痣は、父親の暴力によってついたもの。
「アハハ、この血は俺のじゃないぜ。親父の血だよ。白哉が殺したんだ」
「…警察に……」
 立ち上がったあたしの足首を黒哉が握った。目を見ると、何だかとても恐ろしくなって目をそらしてしまった。黒哉は低く笑った。
「なあ、この血を落としたいんだ。風呂に入れてよ。お前もその絵の具を落としたいだろう?」
 さっき、黒哉に床に倒されたせいで髪にも絵の具がべっとりと付着していた。
 なんで、黒哉はこんなにも冷静なんだろう?あたしの心臓はびっくりするほど鼓動を打っていた。警察に連絡をしなければ、と思うもののこの異常な程に冷静な黒哉を放っておく気にもなれない。黒哉の目をもう一度見る。美しいヴラウンの瞳の奥で何かが揺れていた。その瞳を見ていたら、あたしの頭は素晴らしく冷えてきた。
 あたしは、黒哉を風呂場まで引き摺って服を脱がせてシャワーをかける。黒哉の手があたしのシャツにかかった。
「美芽も一緒に…」
「ねえ、白哉はどうしたの?」
「たぶん、あいつも死んだ」
 黒哉は苦痛に顔を歪めながらも器用にあたしの服を脱がせていく。あたしは、そういうのに抵抗はないけれど泣いてしまいたくなった。だって、黒哉の体中にかかった血液を落としても落としても、それよりも深い痣は全身を隈なく。
 タオルにボディーソープを含ませて、出来るだけ柔らかく黒哉の体を洗っていく。黒哉は、あたしの服を脱がしきり、痣の浮かぶ唇をあたしの疵一つ無い体に這わせた。
 体だけでなく、黒哉の短目の金色の髪も洗う。その金色の髪は少しだけ赤く染まっていた。色はとれても、臭いが染み付いている気がして、あたしは何度も黒哉の髪にシャンプーを擦りつけた。
黒哉の首筋からどろりとした赤いものが溢れ出てきた。あたしは、背筋が凍った。
「美芽、気持ち良い?」
「……よく解らないわ。けれど、くすぐったい」
「今度は俺が美芽を洗ってあげる」
「ありがとう」
 長く細い黒哉の指があたしの黒く長い髪を梳くように洗い、泡が全身を伝う。
「ふふふ、何だかエロティックだわ」
「あんた、俺じゃあ欲情しないだろう?」
「触れられれば欲情はするわ。けれど、黒哉もあたしじゃあ欲情しないでしょう」
「触れられれば欲情するよ」
 そう言って、黒哉はあたしの手を自分のペニスに導いた。
「血が溜まるんだよ、ここに。あの親父に殴られて俺の体中に血溜りが出来た。けれど、ここだけは親父の意思は関係無く溜まる」
 黒哉の瞳を真っ直ぐに見詰める。美しい黒い瞳。
「美芽。手、冷たいな…」
「熱いわ」
「何が?」
「ペニス」
 湯船に湯をはり、ストロベリーの赤い入浴剤を入れる。血みたいだ…、黒哉が笑った。それが引き攣ってみえるのは口元の殴打された疵のせい。
 けたたましいサイレンが近づいてくる。誰かが通報したのだろう。
 ストロベリーよりも赤いお湯の中、あたし達は体を重ね深く眠りに着く。
「美しいな」
 黒哉が深く息を呑んだ。
「何が?」
「美しい」
 黒哉の視線の先。風呂場の壁にはカラフルな花が、世界が、描かれている。あたしは、描かないと生きていけないから。体中に世界が溜まる。
 溜まったものを吐き出す術。
「白哉も俺も、これでようやく自由に熟れる」
 そう言って、彼は低くうめいて絶えた。


 あたしは今、でかいキャンパスに宇宙を描く。
 あの時の黒哉の言った言葉を思い描いて。

「痛ぇよ、もっとゆっくり降ろせって」
 屋根裏から引き摺るように降ろされた黒哉は眉根に皺を寄せて言った。
「光が…」
「え?」
「美芽の暗闇…」

「美しい夢色の宇宙だ…」


end