placebo


 その夜、あたしはベランダでタバコを一ダースきっちり喫って、それから彼の部屋を出て、原チャリに乗って家まで帰った。その後、シャワーを浴びて彼の体液を全て流して、流れて去くそれらまとめて全てを然程愛しく思わないあたしの手首を少しだけ切って、湯船に浸した。でも、少しだけ切った手首の血はすぐに止まってしまった。
 そんなあたしは、全く気を違えた人みたいに、持っている限りの性に関する品物を全て全て全て切り裂いた。切り裂かれたゴムは、まるで切り裂かれた人間の皮膚みたいにだらりとしていた。
深夜の高層マンション。あたしとママ以外の誰も住んでいない、高級マンション。最上階のパンク・ロック。再生されたCDはイヤガオウデモ稼動する。それが、あんたの役目なんだから。その、空っぽの音で、あたしの隙間を埋めて頂戴。あたしを、この深夜の街に埋葬して頂戴。
 SEX PISTOLSのギリギリの音が、ウソみたいにあたしの体を突き上げる感覚。シャーベットのような舌触り。あたしの触覚は耳。
 
 バカみたいに昂奮するあたし。
 バカみたいに昂奮するあんた。
 バカみたいに昂奮した空しさ。
 バカみたいに昂奮したあんた。
 バカみたいに感じないあたし。
 バカみたいに耳障なサウンド。

「ここから、落ちたら幸せに熟れると思うの、あたし」
 蝶は、皮膚一つ動かさずに、あたしを見詰める。無言の言葉は受け取れない、あたし。だって、理解できない。
「どこまでトベルと思う?」
 ベランダの柵の上に座るあたしと、窓際からあたしを見詰める蝶。窓ガラスに反射した猥雑な地上の光りが、蝶の白い肌を薄っすらと染める、赤、、黄…。
 あたしが、解らないのは、何が足りないのか。ここから、落ちて幸福になる為には、あたしに何が足りない?

『まだまだ足りはしない!不安も、苦痛も、まだまだ足りはしない。煮えたぎる湯の中に一本の指を入れておくこと。そして私は叫ぶ、「まだまだ足りはしない」と』
(※1)

 大掛かりな奇怪な機械も、機会も要らない。
「何が足りないの?」
「何か足りないの?」
疑問形は要らない。肯定を頂戴。
 
 あたしの体は、螺子仕掛で、螺子を巻けば悲鳴をあげる。人形のような悲鳴をあげる。

 あたしのママが、壜の中に二酸化炭素を溜め出した。その頃から、彼と繋がってバカみたいに空しい気分に浸った。

「毒を盛られているんだきっと」
 蝶は、マッチを摺ってタバコに火を点けた。まるで、嘘を吐くみたいに、タバコを咥える蝶。
「あたしは、毒なんて盛ってない」
「俺が、盛られてるんだ、きっと」
 ゴムを鋏で切り裂く感覚、指の先に残る。人間の皮膚のよう。少しだけ強靭なあれを抑え付けるには軟過ぎた。あたしが、あたしの幸福を願わなければ、良いのかしら?
 もう少し、確実な毒を盛ろう。青酸カリ・一ミリグラム。蛇の皮膚みたいにざらざらしてる、その感覚。
「精液なんて要らない。もっと別の、あたしの隙間を埋めて、あたしを幸福にしてくれるもの」
「そんなもの、ある訳が無い」
「快楽的折檻機械を頂戴」
「何?」
「寺山修司」

 怖い、怖い、怖い、怖い、怖い…痛いのは嫌い。痛いのは嫌い。血が流れるのなんてうんざり。そんな快楽要らない。そんな幸福要らない。でも、欲しいのはあたしを殺してくれる人。そんなにも、あたしを愛してくれる人。あたしの隙間を埋めてくれる…そんな道具が欲しい。
「喫う?」
 吸い欠けのタバコを、差し出して、蝶は不安定な場所に座る、あたしの真後ろに立った。
「要らない」
「最後になるのに?」
「足りないわ。足りないの。何が足りないの?」
「何も得られない幸福もあるんだ」
「何かを得られない不幸」
「蜜、君は考え過ぎだよ。何も考えなければ幸福に熟れる。聡明過ぎるのが君の欠点だ」
 押された背中。タバコの臭い。纏わり付く紫煙。空気に縛られた、あたしの手足…どうせなら、手錠が良かった。

 落下する感覚。
 落下する速度は時速百メートル。
 落下するあたしの体は意識を無くす。
 落下した先にあるのは、真っ黒な地面。 
 ああ、何て快感!
 ああ、何かを叫んで目が醒めた、夜の感覚。それは恐怖。
 ああ、天国にイケそう。

 カフェイン・ハイなんて比べものにならないくらい最高のトリップ。
ぐちゃぐちゃになって潰れるあたしの体。ぐちゃぐちゃになって潰れたあたしの体。

 激しい昂奮。
 確かな昂奮。
 性的な昂奮に似てる。

「蜜に足りなかったのは、俺達の中に渦巻いてるモノだよ。解っていたんだろう?」
 たぶん、蝶なら、何も無かったようにそう呟く。そして、部屋で自分の胎にナイフを刺しまくって死んでいるママの死体を一瞥して(しないかもしれない)、部屋を出て、何も無かったと全てを忘れてしまうのだ。
 そして、地上に立って、ミンチみたいになったあたしを偶然見つけて「そういえば、そんなこともあった気がしたなあ…」と、遠い昔を思い返すように肉片にタバコの灰でも落として餞てくれるんだろう。
 そして、ひらひらと夜の街に消える。まるで、蝶のように。まるで蝶のように。

There is no tragedy suddenly in the thing which gets up.
There is no expectation of being such a thing.
Fruit is prepared it slowly gradually.
It is progressing.
(※2)


A body had been seen for the first time, it had a body.

Happiness than what happiness!



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参照
※1 ジョルジュ・バタイユ『無神学大全・内的体験』
※2 岡崎京子『リバーズ・エッジ』原文「惨劇はとつぜん起きる訳ではない/そんなことがある訳がない/それは実はゆっくりと徐々に用意されている進行している」