No.0913

 コウが地図に煙草を落とした。
 二畳くらいある大きな地図の上を煙草がころころと転がって、そのフィルターの先…。


「お客様、いかがですか?」
「んー、やっぱりゆるい気がするんですけど…」
「そうですか?でも、このくらいで…これ以上はキツクなってしまうと思いますよ」
「あー、まあこんな感じかなあ。うん、これでお願いします。あとさっきのも」
「はい、ではこちらの二点で宜しいですか?」
「お願いします…って、コウ、マイ、何覗いてるのよ」
 きれいな二重の瞳を少しだけ歪めて、ブラジャーの試着をしていたサエがあたし達を睨んだ。お店のお姉さんがくすくすと笑っていた。
 サエに睨まれた、あたしとコウはフィッティングルームのカーテンにこそこそと隠れた。
「丸見えだって。ちょっと…コウ、会計宜しくー」
「了解。おい、ちょっと、マイ…おまえ俺から離れるなって、恥ずかしいじゃん、俺が買ってるみたいでさ」
 堪えきれなかった笑いを口の端に滲ませて、お姉さんはコウの差し出したカードを受け取った。
「いいじゃん。コウ、変態だし」
 あたしは、うるさくくっ付いてくるコウの顔を少しだけ見上げる。
「アホか。おまえだって変態だろ。俺らああやって覗いてたら捕まるで」
「あたしは捕まんないよ。女同士だもん」
 勝ち誇って訴えてみたあたしの頭に、コウの骨張った拳骨が落ちた。
「痴女だって捕まるんだよ。バーカ」
 軽く殴られた頭部をわざとらしく押さえて顔をしかめると、サエが呆れた顔をして近寄ってきた。
「こちらが商品になります。ありがとうございました」
 お姉さんがやっぱり笑いながら袋に入ったサエの下着を差し出した。サエは、嬉しそうにそれを受け取った。
「ホントごめんなさいね、アホが二人もいて」
 サエが商品を受け取りながら言った。
「アホじゃないよ」
 あたしはコウの腕を軽く振り払う。
「コウがアホなんだよ」
「バカ、おまえのがアホだよ」
「はいはい、行くよー。さあ、行くよー」
 あたしとコウはサエに手を引っ張られながら、店内を引き摺られるようにして出た。お姉さんの笑い声が耳に残った。
 あたしとコウとサエは兄妹で、コウが一番上で二十二歳。サエは長女で十九歳。そして、あたし…マイは末っ子で十八歳だ。あたしたちは、同じパパを持つ兄妹だけれど、みんなママが違う。
 コウは、パパの一番最初の奥さんの子で、あたしが生まれる二年前に亡くなったから、あたしはコウのママのことは何も知らない。
 サエはパパのお妾さんの子で、サエのママは、あたしが生まれたその日にマンションの屋上からダイヴして死んだ。
 あたしは、パパの今の妻の子で、あたしのママはいつも泣いてばかりいた。
 コウもサエも、あたしもママのことは大好きで、泣いてばかりいるママがどうしたら楽になれるか、とそればかり考えていた。だから、少しでもママが喜ばしいと感じてくれることをしようと、コウもサエもあたしも、従順にママの言うことを聞いてちょっと有名な学校に入ってみたりした。けれど、ママはいつも泣いてばかりいた。
 パパは、大きな会社の社長さんであたし達に金銭的に不自由なことなんてさせなかったけれど、とても横暴で暴力を振るう人だった。だから、あたし達はママをそこから解放させてあげることにしたのだ。体中に赤黒い痣を持つママは、どうしたらそこから解放されるのだろう…?

 コウが、ママに衝き立てたナイフは、正確にママの命を奪った。サエは、あたしの手を握り締めながら微笑んだ。
「大丈夫よ、マイ。これでママはきっと幸福になる」
 あたし達は、二日かけてバラバラにしたママの体を焼いた。人の体が焼ける匂いは何だか堪らなくて、あたしの双眸は涙を滴らせた。
「似非だけどね」
 そう言って、コウは般若心経を唱えた。
「天国はキリスト教でしょう?うちは…曹洞宗、仏教だよね。仏教はどこ?」
「極楽浄土でしょ」
 ああ、そうか。サエが煙草をママの体を燃やす炎の中に放り込んだ。
「ママは煙草嫌いだったよ」
「ママは、お酒も煙草も嫌いな人だったけれど、お酒の味も煙草の味も何も知らないのなんて、何だか不幸だわ。毒は、須らく美味しいものなのよ」
 サエは炎を見詰めたまま言った。サエの黒く長い髪が風で静かに揺れた。でも、それらは炎で送るママの音を煙を匂いを消すなんてことはしなかった。
「ねえ、どうしたらママとずっと一緒にいられるのかしら」
 サエは、呟いた。今にも消え入りそうな声を聞き取るには世界が発する音は煩すぎた。それでも、聞こえるサエの声は、血液の中にある。
「この、体を…血を肉を骨を灰を全部あたしたちのものにしたらいい」
 あたしは、ナイフに付着していたママの血を指先に取り舐めた。
 鉄の味がした。少しだけ臭かった。サエがあたしを抱き締めた。ごめんね、なんて言葉が聞こえた気がした。
「ごめんね」
 一体、何に謝っているのだろう。謝罪は要らないから、愛して。抱き締めて。言葉は恐ろしく確かだけれど、それでも今のあたし達に言葉なんて要らない。
 あたしは、サエの肩越しに立ち竦むコウの背中と燃える炎を見た。
 赤い炎と、青い空。あたしはもう泣けなかった。


 走った先には何も無い。
 あたし達が立ち向かう先に何かが在るなんてそんなおこがましいことは考えられない。

 殺害したママの体を焼いた後、あたし達はこの身に宿るママと共にパパの元から逃げた。ケーサツに捕まって、あたし達三人が引き離されるなんて我慢ならないし、そんなことされるくらいなら死んだ方がマシだ。どうせ、いつか過剰なパパの暴力で死んでしまうんだ。
 あたし達は、行き先を大きな地図で決めた。畳二畳程ある大きな地図に煙草を落として、そのフィルターの先にある地へ向かうことにした。
 ありったけのお金と、パパの与えてくれたカード、煙草にライター、チュッパチャップス数本を持って、あたし達は家を出た。駅で服と下着をそれぞれ買って、鈍行列車に乗る。
「カードはこれ以上使わないほうが良いわね。京都を出たら使うのは止めましょう」
 サエが新幹線の切符を買いながら言った。行き先は”東京”と記されていた。
「東京まで行くの?」
 切符を手渡されて、コウが不信そうに言った。
「行くのは国府津でしょう…小田原辺りで降りて在来線に乗り換えるのよ。でも、小田原で買ったら足がつくといけないじゃない」
「あの男、俺達を捜すかなあ…」
「パパは、あたし達を捜さないと思うよ」
 あたしにはそんな確信があった。パパのもとにあたし達が帰らなくてもカードを止めたりとか、あたし達を捜したりとか、ママを捜したりとか、ケーサツに捜索願を出したりとか、そんな事をしたりなんてしないだろう。あの人は…違う、あたし達は良くも悪くもパパにそっくりだ。パパがそう言うことをしないのは、ただ単に全てに無関心だからだ。
「何ものにも執着をしないのは、罪だわ。それなのに、人を屈服させようなんて愚かしいわ」
「なら、あたし達も罪人だね」
 あたしは、サエの手を握る。京都駅の新幹線のホームに出るとちょうど、のぞみ号が到着し風が吹いた。
 サエの長い髪があたしの腕に絡みついてくすぐったい。
「そんな事ないよ。俺達は少なくとも、俺達自信には執着している」
 喫煙席じゃあないんだ、コウは切符を見ながら言った。喫煙席は匂いが付くから嫌、サエが顔をしかめた。あたしは、サエと繋いだ手を振り回しながらコウを見上げる。
「それならパパと同じね。だってパパも自分自身には執着しているもの」
「あの男が、自分自身に執着?笑わせるな。あの男は全てが今失われても何も思わんよ」
 不快そうなコウの横に、ひかり号が到着してコウの少し長めの髪が風で揺れてコウの表情を隠した。
 あたし達は、自分自身以外にもきっと家族というものに執着している。きっとこれを言ったらコウは怒るんだろう。でも、きっとそうだ。細い細い糸を寄り合わせて作られた、脆い脆い家族という絆に…。
 あたし達は、新幹線に乗りまず名古屋に向かった。そして、そこから新幹線を乗り換えて熱海を目指す。そこに何があって、そこで何かが変わるなんて考えられるほどバカにはなれない。あたしはもっとバカになりたかった。


「ここから在来線に乗り換えるのよ」
 熱海の駅に降りると、なんだかむっとした雰囲気がした。それは、あたしが熱海に持っているイメージからなのか実際にそうなのかは判らない。駅を出ると、そこら中で湯気が立っていて温泉饅頭が売られていた。
 いったん駅の外に出たのは、あたしがその温泉饅頭を食べたい、とわがままを言ったからだ。
「ほら、さっさと温泉饅頭を買ってきなさいよ」
 サエが背中を叩いて急かしてきた。
「でもさー、いっぱいあるよ。どこのが美味しいんだろう…」
「二三種くらい買えば?」
 コウがめんどくさそうに言った。
「ねえ、ドラえもんが変な格好してるよ…」
 サエがご当地ドラえもんのキーホルダーを突っつきながら笑った。
「ほら、ここ熱海だし。『金色夜叉』だよ…つか、ドラえもんとドラミちゃんって兄妹だよね…」
「京都だって、新撰組ドラえもんを売ってるよね。キティちゃんとか。変なの」
 あたしは、温泉饅頭を数個試食してその中で美味しかったものを二箱買った。サエは呆れていた。
 在来線に乗り換えて、国府津行きの切符を買って電車に乗る。各駅停車の電車は何だか時間自体がゆっくりと流れていて、不思議な気分だった。京都では見られない、太平洋の海が見えた。
 あたし達は、山と川に囲まれた土地で育って、そこから出ることなんて考えたこともなかった。でも、今その土地を自らの意思で抜け出した。
 国府津の駅で降りると、潮の香りがした。生温くてべたべたする風は不快だけれど、でも何だか優しくて嫌いじゃあないと思った。
「ねえ、どうするのこんなところまで来て」
 あたしは、二人の顔を交互に見た。
「死んだ方がマシ、って言ったのは誰だっけ?」
 コウがあたしを莫迦にするように見遣って、煙草に火を点けた。
「コウだって言ったじゃん。サエも言ったよ」
「じゃあ死のうよ」
「ひどいよ。コウはどうしてそうも簡単に言うの?」
 あたしは、コウの咥えていた煙草を奪って捨てた。何すんの、コウがあたしの頭を叩いた。
「止めなさい。じゃあ、あたし達はどうしたらいいのよ、マイ」
 止めてよ。あたしだって解らない。
 あたし達はママを天国に送ってあげて幸せにしてあげたけど、あたし達自身の幸せはどうなるんだろう…。あたし達は絶対何も間違っていない。絶対間違っていない。間違ってはいけないのだ。
 だって、間違ったらもう戻れないってことを知ってる。
「海まで走るよ、マイっ」
「ちょ…待ってよ、コウっ」
「あ、バカ。アホ二人、走らないでよ」
 急にコウが走り出して、あたしは後を追って駆け出す。
「あたしヒール高いの履いてるんだから」
 サエの声が遠くで聞こえた。
 横断歩道を渡って、旅館の横を抜ける。高架下の階段を駆け下りると海の音が聞こえた。連続的かつ不規則なリズムを繰り返すその音は、激しくて激しくて少し寒かった。
 苦しいよ。息苦しい。走るのは凄く久し振りだったな、と思った。
「ちょっと、待ってよ。あんた等、あたしを置いていかないでよ」
 サエが、少しだけ息を弾ませて歩いてきた。振り返って、サエをじいっと見詰めるとサエはおもむろに煙草を取り出して、吸いだした。
「まったく、アホ二人は何を考えてるの。…疲れちゃったじゃない」
 せわしく口許に煙草を行き来させながら吐き出す煙は、どことなく溜め息のように見えた。全てに疲れた人のようで、なんだか淋しくなった。とても淋しくなった。
 三人で、浜辺に並んで座る。お尻が少しだけ冷たかった。あたしの隣りに座るサエの髪が風でさらさらとあたしの肩にかかった。
 ざざん。ざざん。ざざん…。海の音、煩く。
「どうしたらいいの」
 あたしは、空を仰ぐ。
「死ねよ」
 コウが煙草に火を点けながら言った。
「おまえが死ねよ」
 もう一度、空を仰ぐ。
 三人で、浜辺に並んで座る。白い煙がふらふらと空をたゆたう。

 切り捨てられた爪のような白い月が空高く昇った頃に、煙草が切れた。吸殻を地面に擦りつけて、サエが立ち上がった。
「もう一度、海に入ろう」
 風の音と海の音とが入り混じってて…サエの声があまりにも透きとおっていて空気のようで、あたしは花が降る夢を見た。
 マリンブルーに降るストロベリー色の花。花邑を掻き分けてその果てまで。ぼとぼとと降る花は椿の如く潔く。
 まるで憑かれたように海へ歩く、ふらふらと。サエの後ろ姿は消え入りそうでそれでも、涙は出ない。
「行かないの?」
 コウが立ち上がりながら言った。あたしは、ゆっくりとコウを見上げる。そして差し出された手。思わず。
 あたしが覚えているのは幸福なことばかり。優しかったママと、暖かなサエとコウの手。冷たいものは何も知らない。何も覚えていない。冷たいものなんて何も無い。何も無い。
 十月十日で何億年という進化を辿り行き着いた先に何も無いのなら、あたし達はどうしたらいい?
 冷たいものなんて何も無い。
 足を撫でる海の水はひどく冷たくて、全身が硬直した。それでも、繋いだコウの手、差し出されたサエの手は温かくて温かくて、やっぱりあたしは幸福だと思った。
 漆黒の空には驚くほどクリアな白い月。こんな夜に死ねたら幸せだ。海に土に自然に還元する…そんな妄想だけで体は自由になれる。そんな妄執。
 それでも。
「それでも、あたしはまだ死にたくないよ」
 立ち止まり繋いだ手を引っ張った。と同時に、世界が回った。星が降ってくるかと思った。
 泳ぐ…泳げると思った。このままどこまでもどこまでも、泳いで行けると。あたし達兄妹は小さな世界に縛り付けられて、戦うことを知らず、まるで誰かのことを思い続けるふりをしながら生きてきた。結果として、何にもならない。それじゃあダメなのに。ダメなのに。
「バカっ。びしょ濡れになってしまったじゃないっ」
 水を吸って重くなった服を絞りながら立ち上がると同時にサエに殴られた。力一杯引き止めたせいで、勢いで引っ繰り返ってしまったのだ。
 あたしは思わず吹き出してしまった。
「バカはサエだよ。どうせこのまま行ったら濡れるんじゃん。ばっかみたい」
「あはは、バカだって。バカにバカって言われてるよ」
「何よ、自分だけ優位に立とうとしているの、コウ?」
 優位は違うでしょ…あたしは言おうとして飲み込んだ。サエが、笑っていたから。
 だから、あたしも笑った。あたしも笑う。だって、サエとコウが笑っていてくれるならあたしだって笑える。どんなに下らないことでも、どんなに詰まらないことでも、笑っていられる。
 それが普通では無いというのなら、何が普通なのか。そして、あたしはそんなものは要らない。
「選べよ」
 全身が凍るようだ。冷たい風があたしを殴りつけて、あたしは立ち上がれない。そんなあたしを見下ろすように立ちはだかったコウは、指を三本、あたしの横に突っ立つサエの前に突きつけた。
「いち、京都に戻る。に、出頭する。さん、死ぬ」
「よん、生きる」
 あたしは、コウの指をもう一本立てさせた。
「黒澤の映画かよ」
「じゃあ、生きない」
「アホか」
 呆れてコウが座り込むと、波が少しだけ遮られた。少しだけ寒くなった。少しだけ淋しくなった。
「……泣くなよ」
「泣いてないよ」
「泣いてるわ」
 あたしはサエを見上げた。サエは泣いていた。揺れる視界の先で、コウも泣いていた。
「寒い」
「生きてるんだからね」
 サエが笑いながら言ったけれど、その目からは涙が溢れていた。
 ママは死んでいるから、だからもう寒いとか言えないし、泣くことも出来ない。でも、苦しいことも無い。一体、何が幸せ?あたし達は間違ってはいけない。間違ってはいないんだ。
 砂利と、海水と、空気に塗れて、あたし達は泣いた。笑った。そして、生きる。
 あたし達は、間違ってはいない。
 だって、こんなにもここはやさしい。
 星が降ってくるかと思った。海に飲まれるんじゃあないかと思った。サエの手も、コウの手も冷え切っていて、あたしは泣いた。こういうのが正しいんだろうと思った。
「もうちょっと生きてようよ。そうするしかないんだもの」
 海の音が、星の声が、あたし達の体を撫でた。



end