あたしのお兄ちゃんは、いつもあたしの部屋で眠る。


夏の思い出 ―あの頃―



 正確には、あたしの部屋で倒れこむ。
 あたしより三つ年上のお兄ちゃんは、大学にも行かずアルバイトをして過ごしている。そんな大学四年生。
 あたしの部屋のベッドの横に、殺人現場の死体みたく倒れて眠るお兄ちゃんを、ベッドの上から足先で突付く。「ん…」とか曖昧な声を出して、寝返りをうつお兄ちゃんに、毛布をかけてやる。
「ねえ。何でここで眠るの?ねえ、ねえ、ねえ…」
 起きないと解っていても、足先で突付きながら声を掛ける。茶色く染められた髪が、お兄ちゃんのキレイな額をさらさらと滑った。
 お兄ちゃんの部屋は、あたしの部屋の隣。古い造りの家なので、お兄ちゃんの部屋はあたしの部屋と襖一枚で遮られているだけだ。面倒臭がりのお兄ちゃんは、いつもあたしの部屋を突っ切って自分の部屋へ行く。
「お兄ちゃん。何してるの?どうして学校に行かないの?毎日何をしているの?バイトはそんなに楽しいの?ねえ、ねえ、ねえ…」
「変化の無い毎日。退屈な毎日。どうしたらそれから逃れられる?」
 驚いた。
 寝ていた筈のお兄ちゃんが急に起き上がって、あたしはベッドの上に背中から転がった。
「蹴るなよ、サヨコ」
「人の部屋で寝ているからよ、お兄ちゃん」
「サヨコ。お前、最近おもしろいこと有ったか?」
「無いわ」
 あたしは、起き上がりながら言った。お兄ちゃんは、あたしに向き合うように、胡坐をかいて座り込む。薄暗い電気の中、あたしは久方振りにお兄ちゃんと向き合った。
 黒いティーシャツを着ているため、お兄ちゃんの顔とか腕とかが浮き出て見える。
 遠くで風鈴の音。扇風機の音が聞こえる。
「静かだね。ここは、こんなにも静かだったっけ?もっと音が激しかった気がするよ。静かで恐ろしいくらいだ」
「それが退屈なの?」
「こういうのは素晴らしい」
 そう言って、お兄ちゃんは、見たこともないくらいキレイに微笑んだ。
「お兄ちゃんは、何かを変えたいの?変わりたいの?」
「サヨコは変わりたくないの?」
 お兄ちゃんが、あたしの顔をまじまじと見詰めた。
 小さい頃、夏になると、あたしとお兄ちゃんは二人でよく近くの川に出かけた。冷たい水の中で遊んで、魚を捕まえて…。
 懐かしい、あの頃に戻りたいとか思う訳じゃあない。でも。
「変わりたくない」
 激しい日常。平坦な日常。あたしは、色んなものに巻き込まれて生きている。
 でも、小さな変化とか、変わらない何かとか、もう訳が解らないくらい大切。
「あたしは、変わりたくないの」
「じゃあそのままでいれば良いよ、サヨコ」
「あ……」
「大丈夫。変わらなくても大丈夫。変わらないということも、とても素晴らしい事だよ。サヨコ」
 お兄ちゃんの大きな手が、あたしの頭を撫でた。
 まるで、あの頃のよう。あの頃のよう。あの頃のよう…。
 お兄ちゃんに抱き締められて、眠るあたし。扇風機の音。遠くで風鈴の音。蝉の声。
 お兄ちゃんの心臓音。


「サヨコ、お兄ちゃん知らない?サヨコっ」
「どうしたの、お母さん?」
 あたしは、朝の日差しに瞼を押さえる。
「お兄ちゃんが、家出したみたいなのよっ。ねえ、サヨコ」
 お母さんがそう言って差し出した紙切れには、お兄ちゃんの拙い字で、書かれた手紙。
『サヨウナラ。日常からの逃亡。素晴らしい世界へ』
 あたしは笑った。笑った。ワラッタ。
 不信なお母さんの目。
「お母さん、変化ってしたくなくてもするものだし、したいからといって大いに変わるものじゃあないのよね」
 ワラウ。
「何言ってるの。あなたまで変なこと言わないで頂戴。お母さん、おかしくなっちゃうわ」
 狂ったように鳴く蝉。
「変化って素晴らしいことよ。退屈な日常も。ミーン、ミーン、ミーン」
「何なのよ、みんなしてっ」
「ミーン、ミーン、ミーン」
 庭には、黄色いヒマワリが咲いていた。






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