自称売れない一流ミュージシャン・拓巳は雑誌の隅の小さな写真の中でさえ不敵な笑みを浮かべてその存在を誇示していた。
 ニューアルバムを出したとかで、売れない一流ミュージシャンは小さく記事に取り上げられていた。タイトルは『No title』なんとも趣味の悪いタイトルだ。一年半ぶりのリリース。写真の中の拓巳はまるで自分のことなんて、どうだっていいみたいな顔をしながら僅かに口の端を上げて笑っている。見る人を見透かすような下卑た視線が似合うのはこの男くらいだろう。
 俺は、雑誌をパソコンの並ぶワークデスクに放りイヤホンを外す。イヤホンからはアホらしいくらい明るいポップスがシャカシャカと聞こえてくる。こんなものに、一体どんな詞をつけろというのだ。ラブソング?そんなもの、ゲイの男に書かせてどうする…。資料の四人組のアイドルの写真を手にとり、ソファにもたれかかりながら天井にかざすようにして見る。四人は特別可愛い訳でも特別歌が巧い訳でも無い。会社のプロモーションの仕方だろう。でなきゃ、こんなブスな下手糞が売れる訳無い。こんな女達をカワイイなんて煽てるもんだから、日本の美のレベルが下がるのだ。
 一通り毒づいて、資料を床に放る。
 どうにも、集中できず冷凍庫からアイスジンを取り出しロックで飲み干す。小さなグラスで、立て続けに五杯飲んだところで頭がくらくらした。いい感じだ。俺は改めてパソコンに向かい、イヤホンを突っ込んでMDを再生させる。思いつくままにキーを打ち込む。十分くらいで作業は終了した。推敲は時間が経ってからやる性質なので書き終えたあとは見直したりはしない。俺は、パソコンを終了させてベッドに横になる。
 ベートーヴェンの『月光』を再生させると、全身は浮遊感に抱かれる。効果的な間接照明が視覚を惑わし俺は浅い眠りに入る。三日前にここで抱いた拓巳の姿態を思い出しながら。



 
睦言





 夢を見た。
 作詞家として売れる前の二十歳の頃の俺がいた。拓巳がいた。たしか、初めて拓巳と会ったときのことだ。彼は俺を見て、下卑た含み笑いをもらした。
 当時、俺は金が無くてライブハウスでバイトをしていた。拓巳は、その頃から既にメジャーデヴューはしていたものの、あまり売れてはいなかった。その為、小遣い稼ぎのために俺がバイトをしているライブハウスのバイト募集を見て面接にやってきたのだ。彼は、けだるそうにカウンターにもたれかかると、俺を見上げて、サイノサンは?と聞いてきた。サイノとはこのライブハウスのマスターの事だ。
「バイトの面接に来たんだけど俺、どこ行きゃあいいの」
「斉野は今、ちょっと出てるんで…その辺でテキトーに待っていてください。買い物に行ったんですぐに帰ると思いますんで」
 俺は、初めに目が合った時の含み笑いがどうにも気に入らなくて、視線を合わさずに言った。それが癇に障ったのか、彼はちょっとむすっとして煙草を吸い出した。この頃から、拓巳の髪はぱさぱさで、照明の色が彼を全て支配していた。大きめのだっぷりとしたトレーナーを着た彼の身体は、僅かに表れた首筋や指から想像するにかなり痩せているように思われた。
 斉野さんが来るまでの五分くらいの間にさえ、女達に声を数度掛けられるくらい、拓巳の顔はキレイだった。
「なあ」
 不意に、声を掛けられ俺は焼酎の瓶を落としそうになる。そんな俺を見て、彼はケラケラと笑った。
「何?」
 顔をしかめて、俺は拓巳を視線で威嚇した。
「灰皿」
「どうぞ」
 荒っぽく、カウンターに叩き付けるようにして置くと銀色の灰皿がくるくると回った。それを彼は楽しそうに眺めて指先でなぞる。白い拓巳の指に俺は少しだけ欲情する。この頃、俺はまだ男と付き合った事なんて無かったし、そんな事考えた事も無かった。だから、俺は少し驚いた。戸惑った。そこから、斉野さんが来るまでの数秒が人生で一番長く辛い時間になった。
 拓巳は、斉野さんの目に適いライブハウスとして営業した後、十時からのバーでの専属ギタリストになった。今でも、彼はそこで演奏している。


 ケータイが鳴って、俺は目を覚ます。名前も確かめずに耳に当てると聞き覚えのあるかすれた声が聞こえた。
「拓巳…何?」
『今から、そっちに行ってもいい?』
「今、どこ?」
『マンションの前』
 有無を言わせない拓巳の返答に、思わず声を詰まらせた。それと同時に、インターホンが鳴った。
「はい…」
『あーけーてーよー。基ちゃん』
 受け入れるつもりではいた。けれど、しぶしぶ”開錠”のボタンを押す。そうさせたのは拓巳の行動だ。それに、彼は合鍵を持っている筈だ。
 下のオートロックの入口から部屋まで来るのに一分強ほど時間がある。俺は、その間にリビングの机の上だけでも、簡単に片付ける。
 机の上に物が無くなった頃に、玄関のドアノブがガチャガチャと音を立てた。拓巳だ、鍵を開けるのを忘れていた。鍵を開けに玄関に向かう。ドアノブを軽く押さえながら鍵を開けると、すぐに拓巳の顔が現れた。
「鍵、開けといてよ」
「合鍵、持っていたでしょう」
 そうだっけ。拓巳はけらけらと笑いながら嘯いた。きっとまた無くしたのだ。これで何度目だろう…けれど、拓巳は俺に考える間も与えずにずかずかと部屋に入ってきて、リビングのソファにどかりと座りテレビをつけた。
「テレビ見るの、超久し振り」
 拓巳の家にはテレビが無かった。そのくらい、彼は貧乏なのだ。だから、うちに来ては物をたかっていく。
「あ、ねえこのワイン美味しそう」
 そう言った瞬間には、既にワインのコルクは貫かれている。そして、次の瞬間には彼の胃袋に。どろどろとした赤い液体は、透明のグラスを通さずに彼の咥内を満たした。
 彼は、物に対しての執着が極めて薄い。それは人間に対してもそうで、彼が興味と執着を示した人間は僅か片方の指に入ってしまう。
「ねえ、暑くね?」
 そう言うと、彼は着ていたトレーナーを脱ぎ捨てた。適度に筋肉のついた、けれど細すぎる美しい体には無数の傷痕が残る。消えきらなかった、過去の痕跡。まるで作られたように美しい彼の体をなぞる誰かの指を、唇を思い、胸の奥がふつふつと熱くなる。
「ん。拓巳?それ…」
 俺は見慣れた拓巳の体の異変に気付いた。肩口と肩甲骨の間辺りに藍色の綺麗な痣が有った。正確には痣ではない…タトゥーだ。
「ああ、これね」
 タトゥーに長い指先を走らせ拓巳は微笑んだ。
「餞、かな?」
 よく見ると、藍色の曲線は何かを象徴しているように見える。
「何、それ」
「出水のイメージ」
 ワインを再び呷りながら、彼はくくくっと笑った。嫌な笑いだ。
 そのタトゥーは、一年前に死んだ彼の親友への餞だ。そう、五本の指に入る人間のうちの二人。
 俺は、きっと彼らに勝つことは出来ない。死んだ人間よりも、想われる事は難しい。お互いに大切に想い合っていたのなら尚更。けれど、その二人は俺の中でも大切な人達だから、仕方が無い。けれど、少し苦しい。
「基…」
 暗い部屋の中で仕事中に散らかしたレポート用紙やMD、CD、雑誌類を片付けていると、さっきまでテレビを見て笑っていたはずの拓巳がいつの間にかベッドの上に鎮座して俺を見下ろしていた。
 むすっとした表情のまま、やはりいつの間にか開けたジンをボトルのまま呷った拓巳は俺と数秒目線を合わすと指先を来い、と言うように動かした。
「何?」
 俺は仕方なく、持っていたMDを棚に戻し拓巳の前に立つ。
「跪いてよ」
「何で?」
「アンタが欲しいから」
 腕を引っ張られて、俺はそのまま済し崩しに跪き拓巳の股間に顔を寄せる羽目になる。
「片付け、してんだけど」
「なあ、欲しいだろ?」
「バカか。色情狂かよ」
 拓巳の膝に腕を立てて無理矢理離れようとするが、思いのほか強い彼の力で俺の顔面は露わな腹に押し付けられた。
 拓巳のにおいがした。
「バカはアンタだよ、基。俺達には欲望が全てだ」
 くくくっとあの嫌な笑いを漏らして、拓巳が髪を梳くように俺の頭を撫でた。
「いいにおい」
 拓巳の唇が俺の額に押し当てられて、俺も舌先で彼の腹を舐める。ヘソ周りを軽く啄ばむと、渇いた笑いを口端から零した。ズボンの上から股間をなぞりジッパーを降ろし、唇を這わせる。すでに彼のペニスは勃起状態に入っていた。愛しくて、大切で、かけがえの無い、そんな物を扱うように彼のペニスに触れる。キスをする。
 俺の頭を撫でていた拓巳の手が止まった。
「血が」
「え?」
 思わず顔をあげる。その声があまりにも掠れていたから。
「流れるんだよね、人間って」
「…そりゃあ、まあ…切ったりしたら、だけど」
「痛いよね。俺はすげぇ痛かった。でも、今では痛みさえも快楽かな…」
 拓巳の瞳はどこか遠くを見ている。窓の外の闇夜だろうか。それとも、猥雑な東京のネオン。
 美しく光る月はもう傾いてしまっている。だから、拓巳の瞳に映るのは、暗闇。
「血がね、騒ぐんだ。たまに、もう限界じゃあないかって思う時がある。体中の血が沸騰する。相手が壊れるまでセックスを繰り返してみても、まだふつふつと沸騰してるんだよ」
「暴力にうったえるよりはマシさ」
「そう?」
「まあ、拓巳のってセックスっていうより他人の体を使ったオナニーって感じだけどね」
「生産性の無いセックスは暴力だよ」
 頭部に激痛が走った。
 拓巳に髪の毛を引っ張られたのだ。おかげで俺の体重は頭部にかかる事になって、瞬間的に手をついた。
 痛い…という間もなく、唇が塞がれた。舌が咥内を舐めまわし、吸いつかれると頭がくらくらした。拓巳は決して恵まれた環境で生きてきていない、だからあらゆる手段で生き残ってきた。拓巳の技術は一級品だ。
「今日、墓参りに行こうと思ったんだ」
 唇を放した途端に彼はそう言った。目の前の瞳を見ると、いつも以上に潤んでいた。大きくくっきりとした綺麗な二重の瞳が愁いを帯びていた。
「藍と泉美の一周年だから」
「……一回忌…だ、よ?」
「俺、変な事言った?」
 真面目に成りきれないのが、この男の面白いところでもあり悲しいところかもしれない。でも、この男は、決してその事をマイナスだと感じていない。むしろ、プラスに思っていることだろう。どんな状況においても、拓巳は前に前に突き進むだろう。まるで、間違った道なんてこの世に無いみたいに。俺にはそれが羨ましくもあり、少し苦しい。
「…君が、何を迷うの?」
「俺だって、悩むよ」
 あからさまに顔をしかめた。面白いくらいに、ころころと表情が変わる。ある種、哀しいくらいにこの男は純粋なのだ。
「君は、君の思うままにしたらいい」
「…すげえ、腹が立つんだよ。だってさ、あいつらもういないんだよ?もう会えないんだぜ?せこいよ。ずるいよ。墓参りに行ったからって、あいつらと会えるって訳じゃねぇんだよ。だから、すげえ腹が立って…」
「それで?」
「墓石…を蹴り倒したら、坊主にしこたま怒られた」
「……え…?」
 今度は、俺が顔をしかめる番だった。
「蹴り倒したって…、お前、拓巳…アホかっ、罰当りなっ」
「だって、すげえ腹立つじゃん」
 怒られて拗ねた子供みたく頬を膨らませた拓巳は、顔を背けた。
 けれど、拓巳の気持ちも解る。一年前に死んだ友人は、双子の兄妹だった。二人は拓巳の幼馴染みで、兄の藍は拓巳と同じように音楽関係の仕事についていた。妹の泉美は物書きで、俺の大学の後輩。
もう一人、当時医大生で兄妹と拓巳の後見人の孫である今日子さんを含め、五人でいつも一緒に遊んでいた。
 泉美ちゃんは心臓に欠陥を持っていた。生まれつきの物で、よく発作を起こしては倒れていた。余命は短いと医者からも言われていた彼女は、一年前に愛する兄の藍くんと一緒に自らその命を絶った。病に命を奪われる事をよしとせず、自らの意思で一生を決めたのだ。彼等らしいといえば、彼等らしいかもしれない。けれど、遺された者にとっては?
「人生もっと楽しくなんねえかなあ」
 ジンを呷りながら拓巳が言った。その瞳は遥か遠くを見詰めている。
「俺は、墓石を蹴り倒すくらい自由に生きている奴には初めて会ったよ」
「じゃあ、人生楽しいだろ?」
「拓巳には感謝してるよ」
 わざとらしく言ってみたけれど、それは本当だ。拓巳には、本当に感謝している。この破天荒な男のおかげで、俺の日々は、瞬く間に過ぎていくのだ。だから、悲しんでいる余裕は無い。悲しんでいる暇があったら、死んだ奴の分まで生き抜く。それを身をもって教えてくれるのは、拓巳くらいしかいないだろう。
 けれど、その前しか見ない猪のようなバカな男が、珍しく下を向いている。大切な物を持たなかった拓巳にとって、いつの間にか大切な物になっていた物を失うことは生まれて初めての体験だったのだろう。だから、その喪失感を上手く表現できないでいるのだ。
 それでも、後ろを振り向かないのはこの男らしい。
「俺だったら、死なないね。最後までどんなにしたって生き延びてやる。生きる、って意外と結構苦痛だけど、でも生きていかなきゃなんないし、だったらどこまで自分がそれを出来るか確かめてみたいし」
 ビョーキで死ぬのはちょっと悔しいけど、いつ死ぬか分かんないって状況も楽しい気がするな。俺ってば、明日にでも事故か何かで死ぬかもしんねぇんだよ。でも、まだ十年と生きるかもしれない。
「医者って言うのは残酷ね。その人の解らない筈の死期をある程度解してしまう。けれど、もしかしたら明日にでも自分の病気を治す新薬が生まれるかもしれない。そんな希望を持てるくらい世界は日々動いている。どうして、二人は希望を捨ててしまったのかしら…まあ所詮全ては今更、だけれど」
 拓巳とベッドを挟んで人影が揺れた。暗くて人間の輪郭を捕らえることは出来ないけれど、その凛とした美しい声は今日子さんのものだ。
「ごめんなさい、勝手に入ってしまったわ。イイトコロだったのかしら?」
 そうでないと雰囲気で解っているであろうけれど、聡明な彼女は、からかうようにふふふっと笑ってベッドに座った。スプリングが低くうめいた。
「俺が、合鍵を渡したんですから構いませんよ。どうしたんですか、今日子さん」
 俺は、拓巳の手を振り払い立ち上がり彼女の傍に寄った。拓巳は体さら反転してベッドの端に座る今日子さんに後ろからもたれかかった。
「今日、ね。あの子達の命日だから…本当は一回忌とかやらなきゃいけないんだろうけれど、とりあえず御墓参りに行ったらね、住職さんに注意されたわ」
 今日子さんの言葉にもたれかかっていた拓巳が一歩退いた。それでも今日子さんの静かな声の調子は変わらず、何だか夜の闇がひどく深く思えた。
「…拓巳クン…。アンタ、墓を蹴倒したでしょう。ふざけた真似をしないで戴ける?腹立たしいのは解るけれど、あたしに迷惑のかかることは辞めて頂戴」
 拓巳の方を見ようともせずに、言い放った言葉は極めて美しく発音されていて驚いた。
 思わず呆けていた俺を見上げた今日子さんは、ふうと息を吐いて微笑んだ。
「続けて、よ」
 何を言われたか一瞬理解し切れなかった。拓巳の手が俺の腹に触れてようやく意味を解した。
「ちょっと…拓巳」
「女王様が望んでんだよ」
 拓巳の手は何度振り払っても俺を絡め取る。今日子さんは美しい微笑を称えてこちらを見ていた。
 拓巳と今日子さんの間にも関係が在るのは知っている。俺はそんな事は気にしないし、今日子さんの美しい姿態に絡みつく拓巳の肢体を想像するだけでも胸の奥が熱くなる。まるで、素晴らしい音楽に出会ったときのように。
「声を出して啼いて。互いの全てを啜って。隅々まで舐めて。苦しいと喚いて。貪るように噛み付いて。優しく触れて、そして果てる」
 暗い部屋の中で、今日子さんの白い肌が恐ろしい程に妖艶に映える。朱色の濡れた唇がゆっくりと動く様。
「とても人間らしくて素晴らしいわ。貴方達を見ていると、欲望こそが全てではないのか、と錯覚してしまいそうになるわ」
「錯覚?」
 拓巳が口の端で厭らしく笑った。
「錯覚なんかじゃねぇよ」
 拓巳の手が、俺の腹から離れ今日子さんの白く細い首筋を撫でた。
「欲望こそが全てだ」
 くっ…っと今日子さんの唇から呻き声が漏れた。拓巳の細く骨張った指が喉元に喰い込んでいた。
「ふふふ。拓巳らしいわね…アンタが羨ましいわ」
 今日子さんが拓巳の腕を払った。俺はそれを呆然と見ていた。それはひどく美しくて、現実感を奪う光景だった。まるで二人の行為は一つのフレーズをゆっくりと確実に弾き上げるみたいで、一つの物語のようで、鳥肌が立った。
 こういう感覚は、拓巳と出会ってから知った。俺は平凡に生きてきたつもりだし、これからもそうして生きていくだろう。それに、俺の人生の目標は”当り障りの無い人生を面白く”生きることだ。
「ねえ。続けて、ね」
 今日子さんが俺を見上げて再び囁いた。心臓が高鳴る。拓巳の指先が体をなぞる。ベッドの上に立ち上がった拓巳が、俺の首筋に噛みついた。
「っ…痛いよ」
「乗り気じゃねえな?」
「何だか、神様に見られている気分だよ」
「何、それ?」
 俺の肩に手をかけて首を傾げた。まるで、小動物みたいな動きだ。
「神様って、あたしの事?」
 笑いを堪えているのか声が揺れていた。悪戯が過ぎたわ、と今日子さんが微笑んだ。
 けれど、どうやら拓巳は本気だったらしく不満そうに鼻を鳴らした。
「何だよ、やらせてくんないの。見ててくれたら燃えるのに」
「別に構わないわよ。でも、あたしは貴方達のセックスを見に来た訳じゃあ無いのよ。パーティーをやりに来たのよ」
「パーティー?」
「そうよ。あの子達の一周忌だからって…拓巳くんがやろうって言ったんじゃない。わざわざ病院にまでやってきて」
 今日子さんは不快そうに言った。今日子さんは医者で、病院に勤めているのだ。
 でも、パーティーだなんて拓巳らしい。藍と泉美は騒ぐことが大好きだったから。
「…じゃあ、用意しようよ。ピザでも取ろうか?」
「ワインと焼酎と日本酒は持ってきたわよ。サラダも作れるわ」
「俺、ケンタ食いたい。肉を最近食ってないし」
「…拓巳くんは思いのほか日本語を綺麗に発音するのね」
 今日子さんが驚いたように言った。拓巳は感心したような今日子さんを無視して、肉肉肉と繰り返した。
 今日子さんが驚くのも無理は無い。けれど、今日子さんも美しく言葉を発している。そういえば、あの二人も正確に美しく言葉を発する人だった。特別に気を置いているというわけでも無く、どちらかというと少しだけ苦しげで言葉を疎んでいるようだった。俺は言葉を綴る事を職業としているが、その重要性を余り考えたことが無かった。あまりにも近くに有ったから。俺以外の人間も、普通に生活している分にはそんな事を考える人は少ないだろう。俺も、彼らに出会わなければ考えたりなんてしなかった。
 彼らが美しく言葉を発しているように思えるのは、きっと言葉を丁寧に選んでいるからだろう。無意識のうちに。言葉が凶器になることを知っているのだ。心の傷は体の傷よりも痛いから。快楽にはなかなかになりえない。
「肉、届けてくれるかなあ」
 拓巳は、すでに焼酎をコップに注いで、ごくごくと飲んでいる。サラダを作る今日子さんは不機嫌に顔をしかめた。
「貴方、肉の事ばかりね」
「いいじゃん、何だって。ねえ、ケンター」
 ガキみたいに手足をばたつかせる拓巳は、今年で二十六歳になる。今日子さんも藍くんも泉美ちゃんも同い年だ。俺だけ、一つ歳上だ。
 拓巳は、決して年相応に見えることは無い。大抵、その実年齢よりも若く見られる。それは彼の子供のような自由で破天荒な行動からそう見られるのだろう。確かに、容姿もひどく若くは見えるのだけれど。
「ねえ、肉肉肉」
「届けてくれるでしょ。こないだチラシ入ってたし」
「チラシは?」
「捨てた」
「ダメじゃん」
「でも、タウンページあるよ」
「それで良いじゃん。じゃあ勝手に頼むね。金は基持ちで」
「俺かよ」
 サラダボウルを手にリビングにやってきた今日子さんが、呆れて小さく笑った。

 ピザとケンタッキーの肉とサラダにあらゆる酒が並んだテーブルは何だか壮観だ。鶏肉を片手にワインを呷る拓巳は、既に久々のディナーに気分を良くしている。
「拓巳くん。貴方、さっきからお肉ばかり食べているわ。野菜も食べなさいな」
 今日子さんが、肉を頬張った拓巳の口へ無理矢理野菜を突っ込んで、拓巳がむせた。
「ちょ…苦しいっ…」
「藍と泉美はもっと苦しかったのよ」
 俺は思わず吹き出しそうになってしまう。余りにも思いのよらない事を言ったから。
「今日子さん?」
「なあに。基さんまで笑いを堪えているの?」
「なら、あいつ等は、どのくらい苦しかったってのさ?」
 懸命に笑いを堪える俺をよそに、拓巳は口の端からワインを零す程に笑いながら言った。
「さあ。敢えて言うなら、死ぬほど苦しかった」
「……今日子さん。あなた意外に面白いことを言いますね」
 拓巳は腹を抱えて笑っている。綺麗なアーチを描く今日子さんの眉が不自然に動いた。
「どういう意味かしら?」
「天然じゃん、先生」
 拓巳は今日子さんのことを、先生と呼ぶ。彼女は、医者だ。
「…昔、藍にも言われたわ。あたしはそうは思ってはいないけれどね」
「先生は、面白い人だよね。だって、家族全員お医者さんの長女だぜ。なのに、俺みたいな男と付き合ってる」
 確かに、拓巳のいうとおりだ。彼女のように聡明な人が、拓巳なんかと付き合っているのだ。彼女は、拓巳が俺と付き合っているということを知っているし、何より拓巳がバイであると知っている。
「面白いのは、拓巳くんの方だわ。あたしは藍と泉美の幼馴染みよ。それに、拓巳くんは異性よ。同性と関係を持つよりも自然でしょう?」
「俺にとって、異性でも同性でも自然だよ」
 今日子さんを睨みつける拓巳の瞳は、少しだけ潤んでいて、何だか捨てられた子犬みたいだった。
「俺に、そんな世の中のルールを教えてくれる人はいなかった」
 近親相姦は駄目だとか、同性愛は普通じゃないとか、そういうのって所詮幼い頃からのすり込みだろ。俺はそんなモノ知らなかった。でも俺はその分、自由で、自由に人と交わることが出来たよ。あいつ等だってそうだ。
「アンタも自由な人間だよ。だって、俺のような人間を選んだじゃん」
 何故だか誇らしげな拓巳は、鶏の骨を今日子さんに突きつけた。
「俺は人間の下卑たルールになんて囚われない」
 言葉は凶器だ。それを自然と熟知している、というのは変な話で、けれどそんな拓巳達は言葉が縛り付ける世界の重さを知っていた。
 今、まさにそれを俺達は突き付けられているのだ。全く、笑ってしまう。
「…何笑ってんの、基」
「俺達は、自由だ。本当、全くその通りだよ。俺達は、君と藍と泉美という自由に惹かれたんだ。彼らは自由になった。でも、君はもっと自由だ」
「何それ」
 向かいに座る俺を真っ直ぐに睨み付けてくるヴラウンの綺麗な瞳。
「拓巳くんは、生きているものね」
 真っ赤なワインを飲み干して今日子さんがしっとりと微笑んだ。赤い液体が、今日子さんの体中を駆け巡る様は想像するだけで体の芯が熱くなる。
「いいね。アンタの体に流れる血を全部飲み干してあげたくなるよ」
 拓巳が今日子さんの白い喉を指先でなぞった。どうやら拓巳も俺と同じ事を考えていたらしい。
「俺達は、生きている分自由だよ。俺は、アンタにこういうことだって出来る」
 基…。拓巳が今日子さんの唇を奪いながら、それを眺めていた俺の手を引っ張った。テーブル越しだったため、思わず掴まれていないほうの手をテーブルについてしまい、フローリングの床に半透明の赤い液体が零れた。
「勿体無い…」
「今は何だか、腹立たしい感じがしないんだ」
 拓巳と今日子さんの離れた唇から唾液が糸引いた。
「拓巳?」
 俺は思わず拓巳の顔を覗き込んだ。
「拓巳、それって腹立たしいんじゃなくて、悲しいんだよ」
 彼の頬を涙が伝っていた。
「ナイテンノ?」
「ナイテンダヨ」
 俺は拓巳をキツク抱き締めた。愛しい。きっと、彼はこんな風に涙を流したのは初めてなのだろう。今日子さんが、くくくっと笑った。
「ねえ、さっきの続き。シテヨ」
「非生産的な事が起こった日に、非生産的なセックス。アホらしいね」
 面白い事だ。こんなことも有るというのに、生きるのを止めてしまうのは勿体無い。少なくとも、明日の可能性が比較的高い俺たちにとっては。
「あたしとしたら、生産的よ」
「そんな気無いくせに」
「見てるだけで良いわ。面白いもの」
「やらしいなあ」
 俺をソファに押し付けて、シャツを捲り上げながら拓巳は笑った。
 まるで、何かの映画みたいだ。現実離れしていて、全てが演技じみている。まるで全てが偽りみたいだ。耳元に囁かれる言葉も、俺の体を伝う指も、全身を嘗め回す視線も……。
「どれも俺達にとっては自然だよ」
 誰かが笑った気がした。



end