わたしは、とても正しく言葉を綴ることが出来るだろうか。



言葉


 わたしは、幼い頃から夢ばかり見ていた。
 それは、大人の仲間入りを果たした今でも変わらず、わたしは今でも夢ばかり見ている。いつか、素晴らしい恋愛が出来るのではないか、あるいは類稀な才能が…そんな夢ばかり見ている。
「ねえ。吐いたら楽になる?」
 木田は俯いたまま言った。わたしは、それには応えずに煙草を口に含んだ。諦めたように、木田はわたしを一度見上げて、また俯いた。
「ねえ。わたし、あんたのそういう目、好きだよ」
 くくくっと笑って、木田は立ち上がった。
 朽ち葉のような木田の髪が、わたしの鼻先をかすめた。手元の煙草が、ジジっと音を立てた。
 1Kのわたしの部屋は蒸し暑く、一畳ばかりのキッチンに二人でいると体中を汗の粒が伝う。それでも、換気扇のうるさい音の下と、決められたこの部屋のルールを守ってわたしたちは煙草を吸う。
 木田は、自身の持っていた煙草をシンクの横に置いてある灰皿に落とすと、崩れるようにわたしの足下に座り込んだ。
「ねえ。吐いたら楽になる?」
 わたしは、さっきまで木田が座っていたところにあるゴミを見る。それはケーキ五つ分のゴミ。それだけ一人で食べたら気持ち悪くなるのも頷ける。
「でも、吐けないんだ。わたし、吐くの苦手」
「正常だよ」
 「そうだよね」木田は、壁にもたれかかるようにして、再び立ち上がった。そして、そのままトイレのドアを開ける。
「気持ち悪い」
 きつい音を立ててドアを閉めると、ドア越しに木田が排尿する音が聞こえた。う、とか、あ、とかいう声も聞こえる。わたしは、煙草を灰皿に押し付けて、ペットボトルさらお茶を飲み干すと部屋のパソコンの前に座る。チャンネルでMDを起動させる。電子音と共に戸川純の少し気だるげな声が流れ出す。
 やはりきつい音を立てて、ドアを開けた木田は、そのままトイレの向かいにある冷蔵庫にもたれかかった。そして、ずるずるとその場に座り込んだ。わたしは、パソコンの前から動かずに、首だけ動かしてその様子を見た。
「涼子。お茶貰うし」
「勝手にどうぞ」
 パソコンの画面を見詰めたまま答える。
 視線だけ動かして、木田を見ると、お茶を飲む木田の白い喉が上下しているのが見えた。
「ねえ。木田」
「何?」
 木田が、立ち上がってふらふらとわたしの横まできた。ペットボトルをパソコンの横に無造作に置いて、わたしを見下ろす。だから、わたしは木田を見上げる。
「わたしのどこが好きなの?」
 わたしの言葉に、だるそうな木田の表情が一変した。まるでうすら笑うような、馬鹿にしたような、下卑た表情だ。
「ふっ。だから言ってるじゃん。そういうバカなところとか、わたしを見下す目とか」
「あんたが今、わたしを見下してるけどね」
「でも、あんたの目は、あたしを蔑んでるだろ?そういう目だよ」
「へえ」
 わたしは、笑った。木田は、にやりとイヤラシイ感じに笑った。
 どういう目だ。わたしには木田の言う、わたしの目の表情がわからない。仕方ない。だって、わたしの目をわたし自身が見ることは不可能だ。鏡とか、そういうのは違うだろう。きっと違う。
「あたしのこと、気持ち悪いとか思ってるだろ?」
「気持ち悪いとかは思ってないけどさ。あたしみたいな女のどこが良いのか」
「だからさ、クドイな。そういうさ…」
 木田は指先でパソコンの液晶を叩いた。画面が、小さく歪む。
「バカみたいに夢見がちなところとかだよ」
 モニターには、文字列が並んでいる。わたしの書いた小説だ。
 木田に言わせるところの「夢見がちな小説」だ。
「で、蔑む目とかは?」
「それも好き。てゆか、そっちの方がたまらない」
 げらげらと笑いながら木田は言った。
「あんたのさあ、小説みたいに運命の相手とかさあ、来るわけ無いし。そんなものばっかり夢見てるから、あんたはいつまでたっても処女なんだし…まあ、あたしも真性ビアンだし、処女なんだけどさあ。男の汚いペニスが、あたしのアソコに挿入されるなんて考えただけでも吐きそうだ……あ、やべえ。今なら吐けそう」
 そこまで言うと、本当に木田は、胃の中のものを吐瀉しにトイレへ向かった。トイレからは、グッ…とか、フウッ…とか聞こえた。
「ねえ。木田ァ」
 わたしは叫ぶ。木田は答えない。代わりに「ううっ」と呻き声が聞こえた。
「あたしさあ、あんたのこと嫌いじゃあないけど、男に犯されたいんだ」
 マウスに手を置き、テキストファイルの終了ボタンをクリックする。パソコンが「保存しますか?」と聞いてきた。タイトルは「恋愛小説」だ。まんまそのまま。
「ふっ。涼子。あんた、やっぱ堪んねえな」
 木田が変わらずの汚い言葉づかいで下品に笑いながらトイレから叫んだ。
「現実なんて、こんなもんだよ。ゲロ吐いた女に告られたりさあ」
 手で口元を拭いながら木田がトイレから出てきた。排水音がうるさい。
「あんたのさあ、世界じゃあそんなもの無いよな」
 わたしは、モニターを凝視する。
「木田、あたしのこと好きなら、今ここでオナってよ」
 わたしは、モニターを凝視したまま言う。
 木田が下品に笑った。
「いいよ。間違い無く見てろよ?」
「ああ。それで小説書くし」
「いいなあ。モチーフを観察するあんたの目も堪んなく好きだよ。無機的でさあ」
 おもむろにキャミソールを脱いだ木田は、下着も全て脱ぎ捨てて全裸になった。豊満な木田のバストが揺れた。
 それを見て、一体何をしているのだろうと思った、が今更だ。
「あたしさあ。やっぱ男に犯されたいわ」
「そっか。まあいいや。ヤバイな、見られるって興奮するな」
 木田はそう言って、壁を背中に股を開いてケツに手を這わせた。
 生々しく赤い、木田の性器が陰毛に見え隠れしてエグい。エロい、というより本当にエグい光景だと思う。自分の性器も、こういう風になっているのかと思うと、吐き気を覚えた。
「ねえ、木田。声出してよ」
「んんっ。まださあ…のらねえって」
「興奮するって言ったじゃん」
「なあ、ケツに指突っ込んでいい?そういうの嫌い?」
「別に、あんたのオナニーだし好きにしたらいい」
 木田は笑って答えた。
 わたしは、木田の一つ一つの行動を目に焼き付けようと、凝視する。モニターでは、まだ「保存しますか?」という文字が並んでいる。
「いらないよな」
「え?」
 わたしの呟いた言葉に、木田が反応した。木田の白い額には汗の粒が落ちていた。
「こっちの話」
「なんだよ。ちゃんと見てろよ」
「見てるし」
 わたしは、ぶっきらぼうに答えて再びモニターに視線を戻す。そして、間違い無くマウスを動かしクリックする。もちろん「いいえ」だ。
「木田ぁ。早くイってよ」
「うん…ふぅ…あっ…」
 木田は、殆んど言葉になっていない言葉を洩らした。
 わたしは、オナニーの時には声を出さない。一人でやってるのに声を出してどうするのだ、と思うし。なんか、オナニーってバカみたい。
 言葉にならない言葉というのは嫌いだ。少なくとも、わたしの夢見た世界には必要がない気がした。必要なのは、言葉。あるいは言葉にしなくとも通じるもの。
 いずれの際も、わたしは正確に言葉を綴れるだろうか。
「ねえ、木田。あたしの言葉とかさあ、そういうのでも欲情してよ」
「バカ言うなよ」
 木田は、はっきりと答えた。




end