キーワードは全て下劣だ。
 例えば、血痕とかファックとかナイフ。篠原の行動には須らく付きまとう。けれど、篠原はそれらを愛して止まないのでそれらで以って全てに相対する。


ナイフ



 目が覚めると、目の前に浅野が転がっていて腹が立った。篠原と浅野の周りには酒のビンやら缶やらが大量に転がっていて、柿ピーだとかポテトチップスだとかの食いかけのゴミなんかも散らばっていた。けばけばしいほどに青い毛長の絨毯はべたべたで肌触りはかなり不快だった。篠原も浅野も上半身は裸だった。暖房が効いているはずの室内なのに肌寒い。
 いつもと違う雰囲気に、篠原は結露を起こしている窓を手で擦って外を覗き込む。雪だ。一面の白だ。
 篠原のただでも低いテンションが更に急降下した。絶対に外には出たくない。バイトをサボって首になってもいいから外には出たくないと思った。ベランダや隣の家の屋根を見ただけだが、少なくとも二十センチは積もっているだろう。そして、その雪はいまだ降り続けている。最低だ。
 窓から離れ、足元に転がるビンや缶を蹴飛ばしながら風呂場に行き、バスタブに湯を張る。蛇口を思いっきりひねると、すごい音を出しながら水がバスタブに落下する。ひどい水蒸気だ。一気に目の前が真っ白になった。
 湯が溜まるまで、篠原は室内を少しでも片付けることにし、洗濯機の前に散らばる服をとりあえず中に突っ込んで稼動させる。洗濯機はまんぱんになった。洗剤と柔軟剤をたっぷりと入れた。風呂場を覗くと、湯はなみなみと張られていて、慌てて蛇口をひねり、ズボンを洗濯機に無理矢理突っ込んだ。ふたを開けるとうるさく動いていた洗濯機は一瞬、静寂を取り戻したが、ふたを閉めると同時に再びうるさく稼動した。
 頭からシャワーを浴びる。汗なのかヘアワックスなのか酒なのか、よく判らないべとべととしたものが一気に流れ落ちて、頭を洗い終えた頃には少しくせのある普段の篠原の髪質に戻っていた。
 湯は毒々しいオレンジ色をしている。浅野がバイト先の会社で大量に貰い受けてきた入浴剤は、透明度が少なくけばけばしい発色をする。どことなく、どろりとした感のあるヘビーオレンジの湯で、どう心とか体なんかを癒せと言うのか、篠原は湯に身を沈めて思った。トロピカルフルーツの香り、という甘い臭いが鼻についた。

 目を瞑って首まで湯に漬かっていると、風呂場のドアが開いた。浅野だ。
 全裸の浅野が、ふらふらとした足取りで風呂場のタイルの上に立った。
「なに、オマエ。入るの?」
 篠原は浅野を見上げる。浅野は、篠原の問いには答えずに、少し下卑た笑みを口元に浮かべた。
 篠原は気づいた。浅野のペニスが屹立していることに。
「変態。何に欲情してんだよ」
 浅野は口元の笑みを崩さない。タイルの上にぺたりと座り込んで、今度は、くくっと声に出して笑った。
 細いけれど筋肉のついた浅野の体には肋骨が浮かび上がっている。黄色人種らしい白目の肌がどことなく痛々しいが美しい。篠原はそんな浅野の体をゆっくりと見渡した。
 浅野の容姿はかなり良い方だと思う。実際、浅野はもてる。けれど、どことなく危ういところがあって、アホみたいに色を抜いた白い髪の奥で揺れる純正の日本人らしい黒い目。
 危険な眼だと思う。
「なあ」
 浅野は、口元の笑みを絶やさずに顔をあげた。
「なんだよ」
 篠原は乱暴に答える。視線が合ったので顔をしかめる。篠原の表情を見とめた浅野は、声を立てて笑った。
「ふっ。おまえ、ムカツクな。なあ、篠原」
「ムカツクなら出てけよ」
「ははっ。なあ、篠原。雪降ってた」
「ああ、知ってるよ」
 だから寒い。篠原は、浅野の方を向いたまま再び首まで湯に漬かった。鼻腔に甘ったるいトロピカルフルーツの香りとやらが充満した。
「なあ。外に出よう」
「寒いし」
「気持ちいじゃん」
「寒いのがか?」
「ああ」
 全裸の浅野は、寒そうだ。けれど、湯にも漬からずに冷たいタイルの上に座る。「おまえ、寒いだろ」と訊くと「当たり前」と答えた。まあそりゃあ寒くないはずは無いだろう。篠原は、自分の中で曖昧に頷いた。
「飲もう」
「今からか」
「今から、一日中」
「昨夜も飲んだな」
「ああ。良いだろ」
「はっ。元気な、おまえ」
 それを了解と取った浅野は、声高に笑って、シャワーを頭からかぶった。汗とか酒とかのべたべたした感じが全て流れた。ペニスは既に萎えていた。
 カラスの行水の浅野は、体を大雑把に洗って篠原よりも先にとっとと風呂を出て行った。
 篠原は、浅野が出て行った後、さらに五分漬かった。全身に、甘い香りがまとわりついている気がした。


 二人ともトレーナーにジーンズという格好だ。それにくるくるとマフラーを巻いて、ニットの帽子をかぶったりしている。もちろん、分厚いダウンのジャケットとかも着込む。もちろん、浅野が着ているのは篠原の服だ。篠原が風呂から上がると、勝手に引っ張り出して、既に着込んでいた。
「髪の色、戻そうか」
 玄関で、やはり篠原の靴に足を突っ込みながら浅野は、靴紐を縛る行為に没頭しながら言った。篠原は、煙草に火を点けて、浅野が靴を履くのを待っている。
「何でだ?最近抜いたばっかりじゃん」
 二週間ほど前に、学校に来た時には既に髪の毛が白かった。
 篠原は、行くだけ学校には行く。けれど、浅野は来たり来なかったり。来ても、早々に帰ってしまうこともある。帰って一体、何をすることがあるのだろうと思う。少なくとも、篠原にはすることなど無かった。
「昔のハイドっぽくて気に入ってんだけど、服に困る」
「おまえ、そういうの気にするのか?」
「おい。俺、最近の若者だよ?」
 ヘタクソに紐を縛って、振り返った浅野は笑っているのか困っているのか判らないような表情をしていた。「そうだな」と篠原は言って、靴を履いた。篠原は、そういう浅野の表情が嫌いだった。どこか下卑ている。そういうのは嫌いではないが、浅野のそういう表情は、何となく危険な感じがした。
 篠原が、シューズボックス代わりの本棚の上にある鍵を手に取ると、その横に置いてあったナイフに手が伸びた。
「持っていくのかよ」
 咎めるように言う。
「悪いか?」
 明らかに顔をしかめながら、浅野が吐いた。
「銃刀法違反」
「まあな」
 そう言って、さっさとドアを開けて外へ出た。そして、早くとでも言いたげに、珍しくドアを開けて待っていた。篠原は、小さく息を吐いて、外へ出てドアを閉めて、カギをかけた。
 振り返った時には浅野は既に横にいなくて、駐輪場の篠原のバイクの後ろに跨っていた。カバーが雪ごと地面に放り投げられていた。
「おまえ、とりあえず退けよ」
 浅野は「あはは」と乾いた声で笑って、篠原がバイクを出すのを眺めていた。
「なあ、篠原。いくらある?」
 言われて振り返ると、浅野は雪を丸めてボールを作っていた。
「十万。あとカードがあるし」
「はっ、金持ちだな」
 丸めた雪のボールを、遠くへ放った。
 それは、篠原とか駐輪場の上を抜けてどこかへ飛んでいった。たぶん、その辺に落ちたのだろうけれど、二人はそれの行く先を、美しい放物線を追うことをしなかった。
「俺の金じゃあないけどな」
「おまえのお袋さんの金だろ」
「おまえこそ、持っているのは親父さんのカードだろ」
 篠原の言葉に、浅野は曖昧に笑った。この二人は、そういう笑い方をよくする。ぱっと見た感じ哀愁を感じる、ちょっとそそる表情だ。けれど見る人が見れば、その表情は、イヤラシク、下卑たカンジに見えるだろう。
「はっ。その金で、たっぷり飲んでやろう」
 篠原が、バイクのエンジンを入れた。けたたましい音が、鼓膜を震わせた。


「昼間っからやってる飲み屋なんて、あんたの店くらいだ」
「おい、そりゃあバカにしてるのか?追い出すぞ、クソガキ」
「こんなに褒めてやってんのが分かんないかねえ。とりあえず焼酎くれよ、魔王魔王魔王」
「おい、篠原。このガキ黙らせろ」
 昼間っからやっている飲み屋こと「クリムゾン」店主の石井は、焼酎「魔王」をデカイコップに惜し気もなく注いだ。高い酒だ。けれど、二人も店主もまったくそんなことは気にしない。
「こんな時間から飲んでどうする。学校行けよ、コーコーセイ」
 煙草をくわえたまま、ケタケタと笑い、石井は酒を浅野に突きつけた。それはまるでナイフを突きつける時の、浅野の表情にそっくりで、篠原は腹を抱えて笑い出した。
「篠原。何が面白い?」
「浅野の面がたまんないね」
 そう言って、篠原はひたすら笑う。意味の解らない浅野と石井は、困ったように顔をしかめて酒を呷った。
 石井の煙草が灰皿に押し付けられた頃に、ようやく篠原は落ち着いて、荒い息を整えた。「腹が痛い」と腹をさすりながら、煙草に火を点けた。
「で、篠原。何がそんなに面白いんだ?」
 石井は、すでに新しい煙草をくわえている。外は雪だというのに、この店は暖房と照明でひどく暑い。そのせいか、石井はティーシャツ一枚だ。
「だから、浅野の面だよ」
「俺の面が?何?」
 既に、焼酎を半升くらい空けている浅野は、何が楽しいのかケラケラと笑っている。
「うるさいな、おまえ。その面はアホっぽくて良いな」
「バカにしてるのか?」
 篠原は、肯定するように薄く笑って煙を吐き出した。
 浅野が、椅子からずり落ちるように立ち上がった。ガタガタと激しい音を立てて、高足の椅子が倒れた。「丁寧に扱えよ」と石井が不平を述べた。けれど、浅野はそれを無視した。
 そして、笑った。
「はっ、ははは。なあ、すげえだろ」
「何がだよ」
 篠原は数センチの距離に寄せられた浅野の顔に、顔をしかめた。酒のせいで熱を持った、息が口吻にかかる。
「俺の面。あの女にそっくりな俺の顔だよ」
 篠原は、浅野の言う女を思い起こす。よくテレビとかで観る顔だ。先日、観た邦画でもその美しい顔が在った。若く、綺麗な女だ。印象的なデカイ目が、見る者の心を捉えて放さない。その女に、確かに浅野はそっくりだ。カッコいいというよりはキレイな浅野の顔。
「でも、俺はそういう事を言ってる訳じゃあ無いしな」
 「どけよ、酔っ払い」篠原は浅野の面を無理矢理自分の前から退けた。頬に爪を立てられたのか、浅野は少し赤くなった頬に手を当てた。
 そして、また笑った。
「なあ。俺、天才かもしんねえ」
「は?」
 篠原と石井がハモった。二人は不信そうに少し誇らしげな浅野を見た。
 浅野は天才では無いだろうけれど、頭の悪い人間ではない。むしろ、良いほうだろう。それは、勉学に対してだけでなく。そのくらいは、長い付き合いだ、篠原は解っているし、石井も知っている。
 だから、二人が不信を覚えたのは少なくともその言葉ではない。その表情だ。笑っている。あのいつもの曖昧な不遜な下卑た笑いではない。楽しそうに笑っていた。
「俺、この面嫌い。だから、この面を俺に与えた、あの女も嫌い」
 まるでガキみたいな物言いだ。
「こないだ、篠原言ってただろ。監禁プレイ」
「監禁?んなことしたいのか?このガキは」
 石井が乱暴に口元で煙草を行き来させた。左の鎖骨から腕に向かって彫られた刺青が、煙の向こうで怪しげに揺れる。
 浅野の態度は、無邪気で、けれどどこか挑発が薫る。篠原は、それに乗ること無く、軽く首を傾げて浅野の顔を覗き込んだ。
「何となく、想像はついた。おまえ、犯罪者にでもなりたいのか?」
「おい、今更だろ。なあ、篠原。詰まんねえだろ?なあ、開放されたくないか?」
「それは何からだ?血か?血は消えないし、どこまでも付きまとうだろ」
 篠原は思う。浅野が言うのは、自分の中に流れる嫌いな物の血とかだ。そんなもの、死なない限り切れない。正確には、死んでも切れない。死んで灰になろうが、それが示す遺伝子配列は、浅野の母のそれに酷似していることだろう。
「俺は、あの女が嫌いだ。あの女は、俺を捨てただろう。父親の前で、俺の体をゴミのように捨てただろう」
 曖昧な笑いだ。醜く歪めた口元に、浅野はグラスを傾けた。
「あの女のキレイな顔が歪む様を見たい」
 その浅野の笑顔に、僅かでも恐怖を覚えるものがこの場にいたら、二人の強行はなかった筈だ。いたとしても、誰もそれを止められなかったかもしれない。


 陽が落ちて、二人はデカイマンションの前に立っていた。
 カチャカチャとナイフを弄りながら、浅野はそのマンションを見上げた。篠原もやはり見上げて、笑った。
「はっ。なあ、興奮するな」
「何?篠原君、勃っちゃった?」
「勃ってたら、おまえ抜いてくれるのか?」
「なあ、俺とおまえなら、どっちがタチでどっちがネコだ?」
 見上げたまま、視線も動かさずに浅野は言った。驚いたように篠原が浅野を見た。
「キモイこと言うなよ」
「想像したのか?エロいな。なあ、どっちだと思う?」
「…さあ。まあ、俺は掘られるのは勘弁だな。おまえ、マゾだろ。おまえがネコでいいだろ」
「やっぱそうか。キモイな」
「ああ。テンション下げるようなこと言わすなよ」
 浅野の意を、篠原は図りかねた。だから深くを追求しない。換わりに覚えたての数字を歌うように口ずさんだ。
「5108シャープ。5108シャープ。5108シャープ」
「うるさいなあ。覚えたか?」
「覚えた覚えた。5108シャープだろ。バカにしてんの?」
「してない、してない。さてと…篠原ちゃん、行きますか」
 浅野はケラケラと笑っている。そうして、視線を地に落とした。ぎゅっと目を瞑る。
 浅野は、まじないをかけた。それは、戦いの前に自らを奮い立たせる戦士のそれに似ている。
 「次に目を開けた時、世界は色彩に満ちている」そう三回心の中で呟いて、ゆっくりと顔を上げながら、浅野は目を開けた。
 そこには、あのデカイマンション。隣には篠原。そして全てを覆う空は、闇。
 5108シャープ。それは、マンションのオートロックのパスワードだ。

 二人は、一歩を踏み出した。空は闇。地には雪。手にはナイフ。脳内を占めるのは、下劣なキーワード。
 この先には、キーワード全てを満たすものがある。二人は、今、それらの為だけに、そこに存在する。だから、彼らに未来が無くとも何の足枷にもならないのだ。
 彼らが、いつか死ぬとき、考えるのは今日この日のことかもしれないし、最後に抱いた女のことかもしれない。もしかしたら、いつとも知れない記憶、あるいは記憶の片隅に残っていた擦れ違っただけの老人のことかもしれない。
 彼らにとって、今日のことはその程度のことなのだ。その程度のことだけれど、今日その場で死んでも彼らは笑って死ぬだろう。
 二人は笑う。面白くも無いことで、さも面白そうに。
 空は闇。地には雪。手にはナイフ。血塗られた、あるいは女とか男の体液に塗れたナイフ。