枯歌



「さみしいね」
 孝仁の言葉に、美保は顔を上げた。
「何が?」
 夕日のことかしら…。街の向こうに落ちて逝く夕陽で、今や世界は真赤だった。
「君が」
「……何で?」
 嗚呼、鋏があれば。
「どうして、そんなにも切ってしまったの」
「何を」
「胎を」
 美保は、苦しい。呼吸困難に陥っている、確実に。孝仁の指摘は的確過ぎる。
 気付きやしないと思っていたのに。
「あたしは、結構あたしは正しいと思うの」
 もし、このビルから落ちたら、美保たちは幸せに熟れたかもしれない。
 もし、あの夕陽に飛び込んだら、孝仁たちは幸せに熟れたかもしれない。
 明日の朝刊には、あたしの記事が載るかもしれない…少なからず、美保はそう考えた。
「痛くないの?」
「痛いよ、すごく」
 きっと、もうダメなのよ…いろいろと。美保の飲み込んだ言葉はもしかしたら口に出ていたかも知れない。
 孝仁が、少しだけ反応したから。
美保は孝仁の空っぽな瞳の見詰める先を見据える。何にも見えないわ。
「ここから飛び降りてみようか」
「あたしは、あそこに飛び込みたい」
 もちろん、美保の指差した先には真赤な夕日がある事は間違い無い。でも、やっぱり何にも無いように美保には見える。
 ただ、少し逆光。実際、それさえも不確かだが。
「ねぇ、あたしお腹が空いたわ」
「俺も…」
「マックにでも行こうか」
 美保の言葉に、孝仁は財布を取り出して中身を確認する。
「いくら入ってる?」
「128円」
「貧乏」
「でも、平日半額だし…2人で1つ」
「休日倍額」
 お腹が鳴れば、もう少し早く、このビルから降りたかもしれない。
 しかし、お腹は鳴らなかった。ただ、お腹が空いたと思っただけ。2人とも。
 でも、少なくとも、まだまともな孝仁は、早く動かなくちゃなぁ…とは思ったかもしれない。そして、口にしようと思ったかもしれない。しかしたとえ、音として発していたとしても、美保は動かなかったかもしれない。
しかし、全ては現実の真赤な空気の中に消えた。
「お腹空いたね」
「空いたね」
 空は真赤で、世界は真赤だ。
 ただ、2人の心の中以外は。
「そういえば、ここから飛び降りるんだっけ?」
 美保が思い出したように言った。
「あそこに飛び込むんじゃあなかったっけ?」
 孝仁は興味もなさそうに否定した。
「…そういえば、マックに行くんじゃあなかったっけ?」
「そんな気もする。お腹空いてるの?」
「空いているって言ったのはミホだよ」
「そうだっけ…?」
 2人はもう殆ど無い、夕陽を見た。空は藍色。世界はセピア色。
 もし、この時が宵でなければ、少しは動く気にもなったかもしれないなぁ…美保はその気も無いことを思った。
 まぁ、それもどうでも良い事だが。
「そう、鋏があれば」
「君の胎を裂けるのに」
「貴方の心臓を突けるのに」
 100円ライターと中身の無いジッポー。残り2本のマルボロ。
「あたしにも頂戴」
「喫えたの?」
「違う。喫うの」
 美保は孝仁から残り2本のマルボロの内、1本を奪い取って孝仁の100円ライターで火を付けた。
不服そうな孝仁。一体、何が不満なの。こんなに綺麗な宵なのに。
「美味い?」
「判らない」
「咽ないね」
「うん」
 詰まらなそうな孝仁を横目で見ながら、特に美味しくも無い煙を頬張った。
 何だか頭がくらくらするわ…とは思った。今度はもっと軽いのを喫ってみよう。美保は中身の無い財布を思い出した。

『あたしが死んじゃったら あんたは可笑うんでしょうね いいのよ たあんと可笑って頂戴 でも あの詩だけは詠って頂戴 枯れてしまった あたしのカラダに 餞て頂戴 いいのよ たあんと可笑って頂戴 瓦礫の山の上で たあんと可笑って頂戴 あたしが死んじゃったら あんたは可笑うんでしょうね 壮絶な死を遂げてみたら あんたは可笑うんでしょうね 似合わないって』

「ねぇ、寝てたでしょう」
「うん、寝てた」
「実は、あたしも寝てたんだ」
「そう」
 すっかり深けた夜では、ビルの上は寒い。2人には関係無い。
 でも、美保は昔は寒がりだったから、少しくらいは寒いと思ったかもしれない。
「もし、あたしがさっきまでの間に死んでたらどうした?」
「死んでないからわかんない」
「つまんない人」
 美保はしゃがみ込んで、足元に落ちていた中身の無いジッポーを月に向かって投げた。
「…あれ、プレミアもんだったんだ」
「へぇ、そうなんだ」
 興味の欠片も無い声で、美保は言った。
 もう少し、美保がまともなら、あれがお金変わることくらい気付いて悔しがったかもしれない。
 もしかしたら、孝仁くらいはその事に気付いていたかもしれない。
 しかし、気付いていたとしても、孝仁はその事に触れなかったし興味も無かったし。そして、中身の無いプレミアのジッポー(推定10万)は夜の闇に消えた。
「お腹空いたね」
「空いたね」
「どのくらい、食べずにいたら死ねるかなあ」
「俺は、そんな死に方はしたくない。この国で」
「他の国だったら良いのね」
「ああ」
 孝仁は、アフリカの何も無い枯れた土地で、自分が飢えていく姿を思い描いて、少し良い気分に浸った…かもしれない。終いには獣に喰われちまってさ。なんて。
 でも、実際、そんな事は有得ないので、孝仁も美保も何も言わずにまた、月を見た。
 地上では、ふしだらなイルミネーションが猥雑な着物を纏っている。
 少なくとも、その光景は2人にとっては懐かしいものだった筈だ。
 しかし、2人は物事を懐古するほど出来た人間ではない。
「あたしが死んじゃったら、あんたは可笑うんでしょう?」
「可笑うんだろうね」
「ギターなんて売っちゃいなよ」
 そういえば、孝仁の足元にはギターが有ったな…美保は思い出しながら言った。
「あたしはアカペラで歌うから」
「君がそれで良いのなら」
「いいよ」
「でも、これは形見だった気がする」
「誰の?」
「誰だったけ?」
「知らないよ」
 孝仁は、ギターを見下ろして、誰の形見だったかを思い出そうとしたが、どうにも思い出せなさそうだったので止めた。
「これからどうしようか」
「どうしよっか」
「タカヒトが決めてよ」
「じゃあ、ここから飛び降りようか」
「あたしは、あそこに飛び込みたい」
「どっちだって良いじゃないか」
「いいね」
 明日の新聞の朝刊には、あたし達のことが載るかもしれない…美保は少しだけ嬉しくなった。
 きっと、美保はそれを自分が見られない事に気付いていないだろう。
 きっと、孝仁はそんな事さえ考えていないだろう。
「ギターはどうしようか」
「俺は、あの世でまでギターと一緒に居たくは無いな」
「じゃあ、置いて行こう」
 美保は、ギターをビルの屋上の入り口近くに放り投げた。
 放り投げられたギターの呻き声。ぎりぎりぎりぎり。

『あたしが死んじゃったら あんたは可笑うんでしょうね いいのよ たあんと可笑って頂戴 でも あの詩だけは詠って頂戴 枯れてしまった あたしのカラダに 餞て頂戴 いいのよ たあんと可笑って頂戴 あんたも可笑ってられない状況なんて そんなオチは要らないわ そうそう 可笑って頂戴よ ギターなんてもう要らない あたしの声だけ有れば充分なのよ そうそう 可笑って頂戴 あたしが死んじゃったら あんたまで そんなオチは要らないわ でも あんたが逝きたいなら 勝手にして頂戴 でも まあ 幸せくらいにはして頂戴よ 二人分もあるんだからさ 何かと』

「鋏があれば」
 ぎりぎり。
「君の胎を裂けるのに」
 ぎりぎり。
「あんたの心臓を突けるのに」
 ぎりぎり。

『夜空にダイヴしちゃって頂戴 あたしの後なんて追わないで どうせなら 一緒にイっちゃいましょう 可笑いながら あたし達が死んじゃったら あんた達は可笑うんでしょうね いいのよ たあんと可笑って頂戴 でも 目だけは背けないで頂戴 潰れちゃったカラダから 飛び出た脳ミソから そおして たあんと可笑って頂戴 さあ 月に向かってダイヴしましょう』



end