世界は、あたしが思っていたよりヒドク圧倒的で世界はあたし何人分で出来ているのかもバカなあたしには判らないくらいデカイ。
 煙草臭い指先で朝焼けに手を伸ばしてみたけれど、世界の果てには程遠い。
 聞こえるのは、ビルの隙間を抜ける悲鳴のような風音と、遠くで車の急ブレーキの音。
 見えるのは、白い月と黄色い太陽、幻想的な空のグラデーションと無機的なビル郡。
 触れるのは、見えない存在の汚れた大気と冷たいアスファルト。
 泣きたいのは、きっと世界がヒドクあたしに威圧的だから。
 なんて大きな存在。
 あたし、なんて小さな存在。
 踏みしめている筈の大地は、まるで仮想物のように不確かだ。あたしと全ての人工物は朝焼けなんかにはすぐに飲み込まれてしまう。この震える指先なんてすぐに。
 何億という細胞から出来上がっているあたしだって、所詮この世界の小さな細胞にすぎないのだ。あたしが老化して死んで逝くことなんて、世界にしてみれば何てことないこと。
 それなのに、どうして君はそんなにも大きな存在?
 こんなにも圧倒的にデカイ世界において、君はなんてデカイ存在。
 こんなにも大きな世界の中で、あたしはいつだって君を見つけられる。君の圧倒的な存在、世界を凌駕。


 世界が倒壊する事を予め知っていたかのように、消えた君。冷静な世界、今は、実験室で嗅いだ亜硫酸ガスのような鼻をさす刺激臭が広がるだけのココ。
「って言うか、知ってるも何も原因は君だからによって、それは当然の行為だった筈だわ」
 呟いた、あたしの言葉は風に乗ってまんまと消え逝く。
 君のことだから、あの時に死んでしまったりなんてしていないとは思うんだけど、まあ結局の所これも確信であって。
 だから、あたしは君を捜し出そうと思う。きっと見つけられる。
 だって、世界はトテモ圧倒的だけれど、君はそれ以上に圧倒的。この指先にのる紫煙は君の細胞の一ミリにも満たない。
 鉛色の空が、倒壊した世界を包み込み、僅かな光のうねりがあたしを抱き、君の元へと誘ってくれる。
痛々しい程に気高い大気が風が、全身を舐めまわし空を舞うような感覚に襲われる。上も下も左も右も無い世界。ただ果てしないものだけが感じられる、無為の世界。空間。
 ここには、あたしに対して優しいものなんて何も無い。あるのは虚脱的な破壊衝動と、高慢な現実。

 大丈夫よ、心配しないで。
 あたしが君を見付けてあげる。
 世界が君を忘れても、あたしだけはいつまでも君を探し続けるよ。

 君の細胞の一欠片。


ヒート・アイランド





「俺は、すごく貧しい家に生まれたんだ」
 一日の食べるものにも困るくらい。母は、何度も俺を殺そうとしたよ。でも、気の弱いあの人には出来なかった。どうせなら、殺してくれればよかった…。
 あたしはサトルの光彩の奥を覗き込むように瞳を見つめる。その瞳には、何の動きも表情もなく、あたしの顔が乾いた眼球に映るだけ。
「でも、生きていたからサトルはあたしに会えたのよ」
 陳腐なドラマみたいな台詞。少しも悲しくなんて無いのに、サトルを愛してるというあたしはひどく滑稽だ。
「もういいよ、そんな言葉をユキの口から聞いても何の現実味も持たない。よけい空しくなるだけだよ」
「ゴメン」
 苛立たしげに拳を握るサトルから一歩離れて汚れたカーペットの床に座り込む。
 昔は、きっとどこか大きな企業のビルだったであろう高層ビル。棄てられて何年経つのだろう…蜘蛛の巣が張り、破損が激しくブルーグレーの空が所々覗くことが出来る。
「世界が、ここが、こんな風になったのっていつからだっけ」
「歴史上では、ニッポンの首都トウキョウが正式に廃棄されたのは2021年よ。まだ十年と経ってないのに…もうすっかり廃墟ね」
「オカゲサマで、俺たちには最高の住処だけどね」
「そうね。秩序なんて言葉、もう辞書には載せる必要ないって感じね」
「アハハ、なんだよそれ」
 サトルは尻餅をつくように座り込んで銃を取り出して目の前の崩れかけた壁に打ち込んだ。シュッと音がして、ガンっと壁にヒビが入った。
「…ユキ、愛してるよ」
「何それ」
 今、地球から見える空は灰色だ。サトルの灰色の髪が隙間風で揺れた。


 エレベーターが間抜けな音を発して停止した。階を示す数字は32を示している。
 目の前には変わらない、殺風景なあたしの部屋が広がっている。この部屋はあたしの祖父と父親が経営する世界でも有数企業のビルの最上階。とてもデカイこのビルの最上階に、あたしを管理する為の部屋は存在するのだ。
 過去、ナガノ県と呼ばれていた辺りに存在するこの企業は、祖父が一代で築き上げたものだった。科学等、あらゆる理科的ジャンルを研究するこの企業は形式的には過去に研究室や大學と呼ばれていた施設に似ている。祖父と両親は、あたしにあらゆることを詰め込ませる。いわゆる英才教育だ。経済学、語学、帝王学…企業のトップに立つために必要なことは当然で、他にも美術や音楽、科学や哲学…あたしの脳には人の知る限りの知識が詰まっている。けれど、まだまだ足りない。
 彼らが手配した学者やオトナ達の吐き出す全てを必死に覚えた。あたしは、そこからあたしなりの世界を作る。苦し紛れの世界。苦しいだけの世界。もう、いっぱいいっぱいだ。
 何となく訪れた、トウキョウ。あたしはそこでサトルと出会った。そして絶望した。あたしには、何も無かった、この頭以外何も無かった。本当に何も無かった。人間として必要なもの何一つ。
 三ヶ月前に色を抜いた髪がばさばさに傷んでいる。元々、色素の薄いあたしはスパニッシュとジャパニーズのダブルである母によく似ている。大きな二重の瞳とか、白すぎる肌とか、端正な顔つきとか、誰から見ても美しい母そっくりで。けれど、瞳は父と同じ漆黒。傷一つ、痣一つ無いあたしの体。先天性の痣は全て幼い時に消してしまった。
 部屋にある大きな鏡の前に立つ。けれど、この笑い顔は?きっと、サトルの前でもこんな笑顔を浮かべている。感情のこもらない笑顔。感情はどういうものか、実践を持って誰も教えてくれなかった。全て偽造だけど、一瞬でもそんな思いを相手に与えないくらいあたしは美しい。それだけが救い。それが不幸。
 あたしは、本気で腹の底から笑ったことが無い。
 昨日、人文学の学者が講義を説いていた残骸が、猫足のシルバーデスクの上、少しだけ、まとめの続きが残っていた筈だ…あたしはPCの前に座り”人文”と書かれたMOを起動させる。
「あれ…ああ、今朝に終えちゃったんだっけ…」
 マウスから手を離し、伸びをする。
「ん…」
 天上の隅にCCDカメラが見えた。もう、監視されていることにも慣れた。監視されていることを忘れてしまうことは出来ないけれど、さほど意識をしなくなった。いわゆる思春期をの頃、あのカメラの前で裸になることが恥ずかしくて嫌だった。けれど今は、もうあのカメラの前で裸になるなんてことに躊躇いはない。だって、あたしの体はキレイ。
 それに、あたしは知っている。あたしを監視している奴らが、あたしのストリップでヌいているって事。
「失礼します」
 声がしてあたしは振り返った。父の秘書の天野依子だ。
「どうかした?ヨリコさん」
 短目の黒い髪を耳に掛け、ヨリコさんは電子ノートをちらりと見た。
「社長が、お呼びです。今から宜しいですか?」
「…そんな事、わざわざヨリコさんを使わなくても」
「いえ、わたしが電話を使いたくなかっただけです。あの、これを」
 ヨリコさんは可愛くラッピングされた袋を差し出した。
「これは?」
「クッキーです。わたしの弟が焼いたんですけど…お口に合うか判りませんが」
 確か、ヨリコさんの弟さんはパティシエの卵だ。
「アリガトウ…頂くわ。でも、ここで食べる訳にはいかないから。後で外で貰うわ」
 あたしは、全てに於いて管理されている。
「そうでしたね。貴方のバイクに括りつけておきます」
「ありがとう。じゃあ、行くわ」
「どうぞ」
 ヨリコさんはエスカレーターの扉を押さえた。黄色の美しい手だ。羨ましい。この島に相応しい、それは今ではひどく素晴らしい事だ。
 父の部屋の扉をヨリコさんがノックした。
「社長。ユキ様がいらっしゃいました」
「ああ、入れ」
 低いテナーの声がした。
「失礼します」
 扉の向こうは、あたしの部屋と変わらないくらい殺風景な部屋があった。そして、白いソファーに座る父。父は目であたしに彼の前のソファーに座れと命じた。あたしは、それに従う。
「ユキ、何か飲みたいものはあるか?」
「何でもいいです、お父さんは?」
「天野、アイスティーをいれてくれ」
 父は、視線をあたしから一切そらさずに言った。真っ黒な彼の瞳はあたしを捕らえる。
「ユキ、君の研究予定表を見せてもらったよ。あれは何をしたいのかな?」
「…タイトルの通りです」
「”劣化DNAの再生”とは?」
「タイトルの通りです」
「……そうか。では、この後すぐにでも実験室使用許可を出しておくよ。頑張りなさい、君には期待をしているよ」
「ありがとうございます」
 あたしは、この男を父親だと思ったことはない。あたしがそっくりな女のことを母親だと思ったことも無い。もちろん、祖父のことも。
「紅茶、飲んでいきなさい」
「はい」
 彼らは、あたしのことを娘だと思っているのだろうか…。ここはヒドク冷たい。こんなにも、世界は暑いのに、こんなにもここは快適なのに。
 冷たいアイスティーが喉に沁みた。


「贅沢だな」
「なら、いくらでも代わってあげるわ、柳」
「…遠慮するよ」
 柳は自嘲的に笑ってドロドロのコーヒーに口をつけた。
 柳はサトルの仲間で、サトルは柳とココと一緒に壊れかけた地下倉庫に住んでいる。そこは過去にシェルターとして作られ使用されずに倉庫になったところだ。
「ユキー、ユキはコーヒーに砂糖入れる?」
「砂糖はいらないからミルクが欲しい」
「牛乳…贅沢!」
「ブラックでいいよ」
 あたしは、ココからコーヒーカップを奪い取った。怒んないでよー、ココは頬を膨らませて言った。ココはあたしよりも年下の十四歳で、浅黒の肌に天然の金髪。色を抜いたあたしの髪を見てココは喜んだ、おそろいだね。ココはよく笑う。
「ココ、コーヒーお代わり。砂糖四つ」
 柳はそう言って、空になったプラスチックのコップをココに向かって投げた。
「投げないでよー、柳」
「ナイスキャッチ、ココ」
 柳は、サトルと同い年。藍色に染められた少し長めの髪が漆黒の瞳を隠す彼の顔のつくりはとても端正。かっこいいけれど、ざっくりとした顔つきのサトルとは違うタイプ。それに、サトルの瞳は緑色をしている。
「サトルはどこに?」
「おとついから中国に行ってるよ」
「今度は、誰を殺すの?」
「明日になればわかるよ。それにユキは知ってるんでしょ?」
 ココは少しだけ冷たく微笑んで柳にコーヒーを手渡しながら言った。
 サトル、柳、ココ。三人は”クラッシャー”だ。クラッシャーは世界中にネットワークを持つテロ組織。そして、サトルと柳は殺し屋でもある、ココは売春婦。
 あたしが彼らと出会ったのは一年前。まだ、彼らと出会って一年しか経っていないのだ。

 その日は、変わらない暑さで夕暮れ時にはきっとまた大雨が降るんだろう…と思われる、そんな日。
 あたしは、二十世紀型の愛車のバイクにまたがり一人、トウキョウを目指していた。前々からあの土地に行ってみたかったのだ。写真と空中からは何度か見たことがある、けれど地に下りて歩いたことは無かった。トウキョウは第一級危険地区に指定されているのだ。だから、誰も近づかない。しかし、あそこに人は住んでいるのだ。棲み付いているのだ。
 海に近い辺りは危険な為サイタマからトウキョウに入ることにした。けれど、実際サイタマも危険区域で、突然の雷雨に襲われる危険性があった。そして、何より異常な程に暑い。サイタマは年中三十度以上を保っている、だから、夕立のような雨が突然、それも度々起こるのだ。そのせいか、二十世紀に作られたであろう道路はあらゆる箇所で水没を起こしていた。だから、その度に道を変更して捜さなくてはならなくなりサイタマ内を二日ほど右往左往した。
 サイタマやトウキョウに住む人は正式にはいないことになっている。だから、人に会わないのは当然だけど、人の気配がした。この辺りではまともに眠れない。あたしは脳を活性化させる薬を数度腕に打ち一週間かけて生まれて初めてトウキョウの地に立った。
 どんよりとした空気の漂う、廃墟・トウキョウに。
 とりあえず、銃に玉が装填されているか確認してナイフを靴の中と足に隠しておく。
「最悪の空気ね…」
 あたしは、ピリピリした人の気配に呟いた。囲まれている…何人?五人?六人か?少しキツイ。
 幼い頃から、自分の身は自分で守れるようにとあらゆる軍事訓練をあたしに強いてくれた両親に感謝すべきなのだろうか、こういう場合。けれど、きっと相手は恐ろしいくらい手馴れている。
 トウキョウは、犯罪者の巣窟になっているのだ。今は無き大国家アメリカやイギリスのスラムみたい。否、それ以上の危険区域。もうアメリカもイギリスも事実上存在しない。
「とりあえず…」
 この土地についてはきっと彼らの方が知っているだろう。けれどもしかしたら撒けるかもしれない。打ち合いになったら、たぶんあたしは蜂の巣だ。囲まれているあたしはむちゃくちゃ不利だ。…気配の一つが動いた…あたしはいつでもアクセルに力を込めれるように体制を準備する。…近づいてくる…ヤバイ。
 バイクを思い切り走らせた。銃声が聞こえる。あたしは勘だけで入り組んだ細い道をすり抜ける。バイクは棄てて走った方がいいかもしれない。エンジン音がうるさすぎる。けど、帰れなくなる。どうする?
「っつ」
 不意に目の前を人が横切った。あたしは思い切りブレーキを握り締めた。
「危なっ…轢いて、ないよね…」
 辺りを見回す、けれど人影はない。今、確かに…と不意に声が聞こえた。
「オネーサン、ここ、ここ。こっちにおいで、追われてるんだろ?」
 あたしは声のした方を見る。瓦礫の隙間から手が見える。その手が手招きしているのだ。
「…誰?」
「おいで、大丈夫襲ったりしないから。ほら、あんたを追って誰か来る。早く。バイクもこっちに。手伝うから」
 そう言って、瓦礫の隙間から出てきたのは十二、三の少年だった。ここでは少年といえども犯罪を簡単に犯してしまう。信用できない…けれど、このままいたら…。あたしは少年の目を覗き込んだ。ブラウンの瞳。
「早く早く。たぶん、奴等も俺たちの気配に気づいてるぜ。あんた、気配消せるかい?」
「ええ…」
「じゃあ、その影に隠れてから気配を消すんだ。ほら、押すよ。せーのっ」
 バイクを瓦礫の隙間から穴に隠して、あたし達もその近くの穴に隠れた。どうやら、建物が崩れたときに出来た隙間らしい。地下への階段も見える。バイクはその傍にすべり落とされていた。
 あたしは、昔教えられた通りに息をひそめて精神を統一する。複数の人の気配、近づいてくるのが判る。少年を見ると少年も緊張したように隙間から外を見詰めていた。
「来た…」
 ……ぴちゃん……水がどこからか漏れる音が異常に大きく聞こえた。
「あと少し。オネーサン、少しずつ後ろに下がって。奴等の気配が遠ざかったらバイクはそのままでそこの階段を降りるんだ。あと少し、あと………ほら、行って」
 あたしは気配を消したまま音も立てずに階段を駆け下りた。少年も後からついてきているのだろう、一度だけ小さく息遣いが聞こえた。
 もともと建物に備え付けられていただろう階段はすぐに終わってしまったけれど、後で誰かが付け加えたであろう瓦礫を組み合わせて作ってある階段が長々と続いた。
「オネーサン、そこを右に曲がって。そんで、そこのボートに乗って」
 あたしは言われたとおりに、右に曲がりボロボロの木製のボートに乗った。
 地下鉄が通っていたのだろうか?殆んど水没したその地下空間は真っ暗で何も見えない。
「大丈夫だよ、今から安全なとこに行くんだ。あんた、ここの人じゃあないんだろう?何でこんなところに来たのか知らないけどさ、帰るべきだよ」
「あなた、誰?」
「俺?俺は道行く親切な人だよ…っていうか、俺、あのバイクが欲しかったんだ正直」
「だから、助けてくれたの?」
「そう。ねえ、頂戴あれ」
「いいわよ」
「即答。あんた、金持ちのお嬢さん?すげえや、あれ二十世紀の遺品だろ?」
 あたしが即答するのも当たり前だ。あたしだって命は惜しい。
「よく知っているのね。ねえ、それより今はどこに向かっているの?」
 ひゅーっと呻き声みたいな風の音が聞こえる暗闇。本当に信用できるのだろうか…けれど、もうあたしは決めてしまったのだ。彼の瞳は美しかった。
「もうすぐつくよ。簡単にここから逃げれる抜け道を使うんだ」
「二十一世紀の始めに掘ったっていうトウキョウから大阪への直進の地下通路ね?」
「そう。ここで停まるよ、降りて」
 ボートはゆっくりと停止した。地面があまり見えない。あたしは足場を捜しながらゆっくりと降りた。
 汚水のきつい臭いが鼻につく。
「オネーサン、こっち。手を」
 取った少年の手は少し汗ばんでいた。
「暗くて見えないわ」
「大丈夫?ここから階段だよ、気を付けて」
「大丈夫、目が慣れてきたわ」
 あたしは、少年の手を握った力を緩めた。と、急に目の前の世界が明るくなった。
「おいで、こっち」
 灯りは裸電球で、あたしは苦笑を漏らした。いまだ、裸電球なんて物が存在していたなんて。
 鉄製の重々しい扉が両側に並ぶ廊下に出た。扉には、マンションのように部屋の番号が記されていた。
「どこまで行くの?」
「ここだよ」
 そう言って、少年は”390”と記された扉の前で立ち止まり、鍵を取り出した。前時代的な鍵。それを鍵穴に刺し込み鍵を回すと意外なほど大きな、ガタンという音がした。
「おーい、誰かいる?」
 扉の奥は暗闇だった。その奥で微かに電子の灯りが見えた。静かな機械音が聞こえる…パソコン?
「誰だ、その女…。…見たことあるな…、確か…サナダユキ…サナダコーポレーションの社長令嬢だな?」
「…誰、貴方…」
 暗闇の向こう、人影がゆっくりとこっちにやってきた。逆光でいまいち顔が良く見えない。
「おい、ソウシ。その女、どこで拾った?」
「拾っ…あたしは物じゃないわよ。あんた、誰よ?」
「…ああ。失礼、ミズ・ユキ。俺は、サトル。こいつ、ソウシの仲間だ」
 そう言って目の前に立った男は近くにぶら下がっていた裸電球を点けた。あたしよりだいぶ背の高い男は、あたしの手を取ると掌にキスをした。彼の濃い灰色の髪が掌で踊った。
「オネーサン、すごい人だったんだね。超金持ち?俺はソウシ、サトルの弟分だよ」
 少年・ソウシはそう言って微笑んだ。
「そうそう、サトル。彼女なんか追われてたんだよね。で、連れて来ちゃった」
「まあ、知らなかったにせよ良い判断だ。どうせ、追っていたやつらは彼女がサナダの令嬢とは知らなかっただろうけどね。…ミズ・ユキ…」
「ユキで良いわ」
「では、ユキ。君はどうしてこんな場所に?」
 彼は、小さな木製の椅子をあたしに勧めた。
「いいわ、すぐに帰らせて貰うから…。ちょっとこの地に興味があったのよ」
「ここは、君のような人が来る場所じゃあないよ。君ならここの危険を理解している筈だ」
「ここは、自由だわ」
 あたしは、小さく微笑んだ。傲慢な自分に。
 きっと、彼なら理解するだろう。あたしは、サトル、彼を見たことがある。間違いない。いつだったか、ハッキングしたテロ組織のネットワーク。そこに彼の写真と簡易プロフィールがあったはずだ。あたしは絶対に、忘れない。
「君は、傲慢だね。おいで、案内するよ」

 数十年前に鉄道を通すためか掘られた地下道。あたしは、それを使ってあの時以来この地に来ている。ここを使うと五時間程度で、直通でトウキョウまで来られる。そして、直通でサトルたちの棲家に行ける。
「サトル、久し振りね。中国のナンバー3が殺されたわね」
 あたしはさり気無く彼の罪を突きつけた。けれど、彼はそんなもの意に返さないだろう。
「ああ。ユキ、コーヒーを飲む?」
「ありがとう。戴くわ」
 サトルは、表情も変えずに言った。きっと、彼は表情も変えずに人を殺すのだろう。そういう風に教育されているのだろうし、そういう風にしかなれないのだろう。
 あたしは、サトル達の組織の全てを把握している。ネット上にある全ての情報は少なくとも把握している。今までハッキングでバレたことは一度も無い。サトル達の目の前でハッキングを試みたことがあるから、彼らはあたしがハッキングしていることを知っている。知っていて黙認している。理由は解らない。しかし、あたしは、彼らを信頼している。彼らも、あたしにある種の信頼を抱いているみたいだった。
「サトル。今日は、ココと柳は?」
「ココは仕事。柳は知らない。あいつ、偶に居なくなるしな…どこに行ってるんだか」
「そういえば、今日ここに来るときに久々にソウシに会ったわ」
「ああ、あいつは今、プログラムの中に居るからなあ…俺もあんまり会わんよ」
 プログラムとは完璧なテロリスト、暗殺者になる為のクラッシャーの教育システムだ。それを経ると、プロとしてメンバーに迎えられる。ソウシは元々情報屋として動いていた為、プログラムに入るのが遅れたと言っていた。久々に会ったソウシは身長が急に伸びていた。顔つきも変わって男らしくなっていた。あたしを見つけたソウシは嬉しそう変わらない人懐っこさで笑いかけてきた。
 プログラムはとてもキツクて逃げ出したくなる、と言って笑った。情報網をプログラムに入っている間に絶やしてしまわないように、上に許可を貰って偶にこうして外に出てくるんだと言っていた。
「ねえ、サトル。あたし、あなた達があたしの家族を狙ったら阻止すると思うわ」
「どうしたの、急に」
 サトルは、コーヒーカップを差し出しながら言った。
「だって、あなた達は世界がこうなった原因であるトップたちを殺していっている。だったら、あたしの祖父だっていつか狙われる。そうでしょう?」
「何を見たの、ユキ」
 サトルの美しいブルーの瞳が揺れた。微かに殺意を感じる。空気がピリピリと痛い。
「怒らないで、サトル」
「ユキ、君が目の前に立ちはだかったら、俺は君を殺さなければならない」
「……あなたに殺されるのなら本望よ」
「君は、死ぬべき人間では無い」
 サトルの長く美しい指が、あたしの耳元にかかる。あたしは、受け取ったコーヒーカップを落としそうになる。サトルの目は純粋だ。有り得ないくらい。有り得ない、だって、彼は殺人者だ。
「あたしは、あなた以上に残酷な人間よ」
「君なら、世界を救えるかもしれない」
「…ふっ…ふふふ…笑わせないで、昔のアニメーションの見すぎよ」
「そんなもの見ないよ。君は、知識に獲り憑かれた人だ。そういう人は何だって出来る」
 その日の晩、あたしは銃を握り締めながら気配を消し祖父の部屋のドアの影に隠れていた。盗み見たメールの通り、午後二時三十分。気配の無いまま、一人の男が仕事をしていた祖父の前に立ちはだかった。音も、声も無い。祖父の悲鳴さえも無い。あたしは、阻止することを忘れた。否、阻止する気なんて元々無かったんだ、きっと。男は、祖父に刃を立てると音も無く立ち去った。あたしも、静かにそこから立ち去った。三秒だけ、黙祷をして。

 サトルを憎んだりはしない。誰かを憎むなんて出来ない。しかし、祖父が死ぬべき人間であったなんて思わない。葬儀は、簡素なもので祖父の残していた遺言どおり全ては淡々と進み、そして、祖父の全てはあたしに渡った。あたしは、世界でも有数の企業の全てを手に入れた。でも、こんなもの要らない。
 三週間ぶりに、地下道にバイクを走らせた。しけった空気が鼻につく。何処かから血の臭いさえする。バイクの灯りだけが全てで、どこまでもこの道が続く気がして、気が狂いそうになる。
 そして、終りがくる。無限なんて、無いんだから。
 裸電球が所々揺れている。直接壁に打ち込まれた螺子にぶら下っている電球の傍には数字が書かれている。あたしは、390と書かれた電球の下に立つ。そして、軽く壁を押す。そして、スライドさせる。そこには、また道がある。けれど、そこには蛍光灯の灯りがある。あたしは、バイクを引いて道を進む。苔臭い。肌にべたべたと水分が付着していく。
「ユキ?」
 不意に声を聞いて、あたしは前を見た。重々しい鉄の扉の前に、ココが膝を抱えて座り込んでいた。
「どうしたの、ココ?」
 あたしが、声を掛けると、ココは泣きそうな顔をした。
「待ってたの、ユキを。だけど、ユキ…ずっと来なくて…もう、来ないかと…嫌われてしまった…って」
「ふっ…どうして、あたしがココを嫌うっていうの?」
「だって…」
 あたしは、ココを抱き締めた。
「ココ。さあ、サトルと柳のところに行こう」
 ココが扉を開けて、あたしはバイクを引き入れる。バイクを置いて、階段を昇る。少しずつ、明るくなり、大きな部屋に出る。そこには、変わらず少し汚れたソファがあって、サトルと柳が座っていた。
「ユキ…?」
 サトルが目を見開いた。あまりにも幼く見えて、あたしは笑った。
「何笑うの?」
「ふふ、サトル、幼い…」
「…ユキ。もう、来ないかと思ったよ」
 柳が立ち上がって言った。
「ユキ、コーヒー飲む?」
「戴くわ。…珍しい、柳が入れてくれるのね」
「柳が、一番上手いんだよ」
 ココが微笑んだ。あたしは、サトルの前の椅子に座る。
「…ユキ、…ごめん」
「ふふ、どうして謝るの?あなた達は悪くないわ。けれど、あたしも祖父も悪くない。責任なんてどこにも無い」
 トランジスタラジオから、音楽が流れている。なんだっけ、何ていう曲?たしか…『主よ人の望みの喜びよ』だっけ…?ここに、神様を信じてる人なんていないのに…。
 あたし達の望みは喜びに繋がらない。
 DJが、台風の到来を告げた。また、土地が沈む。台風が来るたびに、地震が起こるたびに、天災が起こるたびに、世界は沈んでいく。


 ピリリリリリリリ…。
 ケータイが煩く鳴って、あたしは激しく窓を打つ雨を見詰めながら受信ボタンをおしてケータイを耳に押し付ける。
『ユキ、ユキっ!』
 あたしは、思わず耳からケータイを離してしまった。あまりにも大きな声だったから。その声はココの声だった。台風の激しい風が窓を打ち鳴らしている。
「どうしたの、ココ。落ち着いてよ」
 できるだけ冷静に声を聞き取ろうとするが、激しい息遣いとか雑音とかでどうにも聞こえにくい。
『ユキ、ユキ。どうしよう、柳が死んじゃうよ』
「どう言う事、ココ?」
 あたしは、ケータイを握り締めた。ただでも遠かった声が更に遠くに聞こえた。
『代われよ、ココ。ユキ?柳が刺された。ちょっと、マジやべえんだ。だから、今からユキんとこに連れて行く。いいか?っつっても既に向かってる。あと一時間くらいで着く』
「どう言う事?誰に刺されたの?」
『ドラッグジャンキーの快楽殺人者のオッサン』
「柳ほどの人間がどうして…?」
『誰のか知んないけど、台風んなかガキが棄てられてたんだ。だから、そいつを助けようとして』
「解った。何でもいいわ、とにかく連れて来て。あたし専用の研究室があるの。そこの地下まで連れて来て。地下番号は938」
 そう言って、あたしはケータイを切った。あたしは、ヨリコさんに電話をする。
「父には内密にあたしのラボを開けて貰いたいの」
『え?不可能ですよ』
 ヨリコさんはひどく驚いて、声を裏返らせた。
「いえ、出来るわ。今から、カメラにハッキングをかける。二分後ぴったりに動いて。三分以内で開けて。カードは入り口まえの床に置いておいて」
『…わかりました…何とかやってみます』
「アリガトウ。お願い」
 用件だけ告げて電話を切る。今までにも何度かこういうことをヨリコさんに頼んだことがあるけれど、今回は祖父を通した依頼ではない。今までは祖父と内密でこういうこと…そういう組織からの怪我人のシューリの依頼を受けていた。
 あたしは、自分で作り上げたプログラムに自らハッキングをかける。我ながら感心する。今まで、こんなに難解なものに試みたことは無かった。
 不意にケータイが鳴った。誰から?脇見は出来ない。それでも、液晶画面を見るとヨリコさんの名前が記されていた。
 あたしは、監視カメラを停める。一時停止。完璧だ、二分ぴったり。
 古典的だけど、あたしは布団の中に人形を入れて布団を被せる。笑ってしまう。そして、昨日の画像を用意する。そして、柳のことを考える。彼らの手におえないということは、手術が必要になるのかしら?あたし一人でどうにかできる?でも、やるしかない。ラボの下に父親にも内緒で作った本当のあたし専用の研究施設がある。あそこは、直であの地下通路に繋がっている。クラッシャーも医者を持っている筈だ。事のつまり、あっちじゃあ手におえないって事、そういう事で何度か裏で組織の殺し屋たちの手術を受け持った事がある。医者はいるものの、簡単な事しか出来ないのだ。医者と言っても違法の者しか、あそこには存在しないから。
 五分たち、あたしは昨日の夜の画像を流す。部屋のロックを解除して、廊下を走りラボに向かう。部屋の前には、きちんとカードキーが置かれていた。あたしは、それに軽くキスをして内からロックをかける。ツンとした薬品の臭いがする。
 机の下に潜り込み、床を軽く蹴る。床を外して、現れた階段を降りる。ケータイがバイブする。
『ユキ。もうすぐ着きそうだよ。柳の心拍が凄く微かなの。どうしよう、あたしの所為だわ」
「責任は聞いてない。心臓マッサージとか出来る?」
『解んないよ。サトルがさっき試みたみたい。どうしようどうしよう』
「何で移動しているの?」
『車だよ。借りたの』
 ココはもうすでに半泣きだ。
 あたしは、すぐにクラッシャーのプログラムにハッキングを掛る。柳のプロフィールが表示される。正規な戸籍には無い柳のプロフィール。名前と性別、年齢、血液型、出身地…そしてクラッシャー内での成績と今までの仕事について簡潔に書かれていた。
 黄柳梓>>>>>>♂>>>>21>>>>O>>>>CHAINA>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
「クラッシャーのリストの中にあるプロフィールに間違いは無いわね?出血量は?」
 柳のクラッシャー内での実力レベルをかすみ見る。”AA”最高のレベルだ。
『リストに間違いは有り得ない。かなり出血してる。あたしが、赤ちゃんを助けてだ何て言ったから…』
「ココと、柳はO型ね。今、三人で移動しているの?」
『そうよ。でも、組織からO型の血液を預かってきた。お金は払うそうよ。クラッシャーとしても柳を失うのは大きすぎる痛手だから』
「解った。なるべく急いで。出血部を圧迫しておいて」
 ケータイを切って、地下へ急ぐ。電気を付けて、手術の準備をする。
 あたしは、一体何をしているのだろう。祖父を殺した奴等を助けようとしている。けれど、あたしは祖父の殺されるところを見ても何も思わなかった。そして、柳が死にそうと聞いても悲しさは無い。ただ、助けなければという義務感が有るだけ。心の中がひどく空虚だ。
 台風が、あたしさら全て全て全て水没させてしまえばいいのに…。そうしたら、誰一人苦しまずにすむ。
あたしは、ココたちを待った。音楽をかける。古いクラッシック、パッヘルベルのカノン。体が洗練されていく気がする。
 鍵を開けておいた入口が静かな音をたてて開いた。地下のヌルイ空気と苔臭いにおいが鼻につく。
「ユキ?」
「…ココ…柳は?」
「今、サトルが」
 真っ赤に目を腫らしたココの頭を軽く撫でて、あたしは、普段は解剖をするときに使っている机の上に柳を乗せるようにココに指示をして髪を縛り、麻酔の準備をする。ココから、血液を受け取ると、生々しい血の臭いがした。
 サトルの声がして、ココが解剖台に柳を乗せるようにサトルに伝える。あたしは、その声を聞きながら薄いゴム製の手袋をはめて振り返る。
「っ…柳…」
 思わず、声を失った。今まで、死にかけた人を診たことは何度かある。けれど、こんなの今まで持っていたのが不思議なくらいだ…数箇所を刺されている、体中が切り裂かれている。どうして、こんな…まして、柳ほどの人間が…。
「ユキ、助かるか?柳は…」
「…っあ…わからない…どうして、柳ほどの人が…こんな…」
「助けようとしたガキは二人いたんだ。相手も、暗殺者崩れの快楽殺人者だったし、それにこれだけ柳に傷はあるのに、両腕に抱えていた筈のガキには傷一つ無いんだぜ…さすがとしか言いようがないよ」
 サトルが悔しそうに唇を噛んだ。
 よく見ると微妙に急所が避けられている、恐ろしいことだ。クラッシャーの暗殺者の腕の程が知れる。あたしは、麻酔を打つ。深く、内臓まで傷が至っているところもある。銃じゃないのが救いだ。
「ココ、輸血を。サトル、メスを」
 頭がくらくらする。祖父を救うことさえしなかったあたしが、何で祖父を殺した奴の仲間を助けようとしているのか…けれど、あたしの手は脳は実に正確にメスを込め、針を刺す。
 けれど、ねえ。誰かを特別に思う事のないあたしには、造作も無い。柳の体を救ったとなれば、あたしの手術の腕はかなり上がっているといえるだろう。もっともっとあたしは手に入れたい。知識を全てを全てを。


「ココ、眠るといいわ。きっと、すぐには目覚めはしないから」
 シャワーを浴びて戻ると、ココは柳の眠る医療用の簡易カプセルの前に蹲るようにして座っていた。また泣いていたのだろうか、目は真っ赤だった。あたしを少しだけ見上げてまた顔を膝に埋めてしまったココに、あたしは毛布を掛ける。サトルは、そんなココを手術台に乗って見詰めていた。イヤホンをつけている。
「サトル?」
「…何?」
 イヤホンを片耳外す。
「シャワー、使うといいわ。血が付いてる。…何を聞いてるの?」
 ああ…曖昧に微笑んで、サトルは外したイヤホンをあたしの耳の傍に持ってきた。微かに零れる音。たしか、二十世紀だかのアーティストだ。
「マーヴィン・ゲイ?」
「そう。WHAT'S GOING ON…シャワー、借りるよ。…ココ、寝なよ」
 手術台から降りて、サトルはココの頭を撫でた。あたしは、ココを抱き締めた。柔らかいココの体。この細い体で何人の男を受け入れて、この細い腕で何人の人間を殺したのだろう…。
「音楽をかけようか…ココ、そこのソファに横になるといいわ。大丈夫、やれるすべての事はやった。あたしに出来ないことは無い。そうでしょう?ね、サトル?」
「ああ。ココ、寝な。明日、仕事が入っているんだろう」
「うん。でもここでいいわ。毛布、ありがとう」
 ココは頭から毛布を被ってカプセルにもたれかかった。音楽をかけて、しばらくすると、ココは死んだように静かに眠った。モーツァルトの子守唄が優しくて、柳が目を覚ますように…と三回願うと意識が遠のいた。


「ユキ?」
 サトルの声がして、あたしは目が覚めた。サトルが起動させたのだろうパソコンには”TOKYO”という文字と海が映っていた。
「…それ…もしかして、また水没したのね…」
 パソコンに映る廃墟・トウキョウの町はすっかり水没して、僅かにかつて摩天楼を誇った高層ビルが水上都市みたく突き出ている。この水が退いても完全に退く訳ではない。
「ああ、この画像ね。でも、俺たちの棲家は水没してないよ。あそこは水が入らないようになってるからね。あの地下道も」
 サトルは何てこと無いことのように静かに微笑んで言った。
「何を見ていたの?」
 PCを見詰め直すサトル、一気に無表情になる。こういうとき、サトルが恐ろしく思えてくる。特に何かを調べていたと言うわけでも無さそうだ。
「いや、別に。あ、勝手にコーヒーを貰ったよ」
「ん…。何か食べる?用意するけれど」
「貰う」
 あたしは、ラポの隅にある簡易キッチンでパンと卵を焼いて、温かいコーヒーを入れなおす。何だか、とても静かだ。昨日の夜の出来事は全て嘘みたいだ。昨日のことを確認するように、あたしはラポを見渡す。カプセルに人形のように横たわる柳。点滴の管が何本も柳の腕から伸びている。その柳が眠るカプセルの横で毛布を被り眠るココ。やっぱり現実。
「どうかしたの、ユキ?」
 サトルが、後ろからあたしの肩にもたれかかってきた。
「重いよ。はい、卵焼きとパン。コーヒーはあたしが持ってくから」
 肩越しにサトルに手渡す。あたしは、少しだけ驚いた。だって、警戒心の塊みたいなサトルが幾ら親しくなったとはいえ自ら体を寄せてくるなんて。あたしは、濃い目のコーヒーを入れてサトルの元に持っていく。ラポの脇にある小さな丸机の上に卵焼きとパンとコーヒーを並べると、サトルが笑った。
「何か、いいね。それに、卵なんて久し振りに食べる」
「ここじゃあ、マトモなもの作れなくてゴメンね。サトルもココも疲れているのに…」
 フォークとジャムを手渡す。
「ユキも疲れてる。…なあ…」
 サトルの手があたしの頬に触れた。大きくて、温かい手だ。サトルの瞳があたしを真っ直ぐに捉える。
「なあ…俺、マジでユキには感謝しているよ。君の事は、ココも柳も俺も仲間だと思ってる。俺達は、人間を山ほど殺してきたけれど、ユキ、君の事は本当に大切に思っているんだ…」
 あたしは、真摯な視線に耐えられずに思わず視線をそらしてしまう。あたしは、真っ直ぐな目を向けられる事に慣れていない。いままでそんなものをあたしにくれた人は殆んどいなかったから。そして、あたし自身も、そんなものを他人に向けた事が無かったから。
「…サトル…冷めてしまうわ」
「うん。貰う。いただきます」
 そういって、微笑んだサトルは今までも見た事無いくらい優しかった。
 サトル達は元々、トウキョウに住んでいた訳ではない。彼らのような人達は大抵、クラッシャーのようなテロ組織や人身売買の組織に買われて運ばれてくるのだ。
 温かいコーヒーを体内に流し込むと、胸の奥がしんと熱くなった。
 パソコンの電子音が聞こえる。ココの寝息。フォークとガラスのお皿がぶつかる小さな音。静かだ。本当に静かだ。こんなときが、ずっと続けばいい。柳が元気になってココに皮肉を言って、ココが笑っていて、サトルが微笑んでいて、そして、そこにあたしがいればいい。
「ユキ、柳は置いていく。俺たちには仕事があるから…」
「うん」
「柳の事、頼むな」
 あたしの悲しいくらいに薄い掌にサトルの温かい唇が触れた。


 柳が眠るカプセルの横で、あたしの十年前から続けていた研究が最終段階に入った。
 まだまだ安心できる状況ではないため、気が付く時に柳の脈を取り血液を調べ薬を投与する。
あたしは、溜め息を吐いた。あれ以来、一週間同じことを繰り返している。研究が最終段階に入ったため、出来るだけ早く全てを知りたい。けれど、疲労は確実に溜まっていた。
 伸びをして、カフェイン剤とあらゆる栄養剤を水と一緒に体内に流し込み立ち上がる。
「やろう」
 声に出して、自分を奮い立たせる。
 あたしは、幼い頃からあらゆる教育を施されてきた。いつの間にか、それらはあたしの中であたしの全てになっていた。そして、あたしはそれらをそれら以上のものを全て全て、世界を全ての事を知りたいと思うようになった。
 レーザーメスで薄く指先を切る。血と細胞を自作した機材の篩いにかける。静かな起動音がして、情報がコンピューターに流れてくる。画面をまじまじと見詰める。
「っ…やっと…」
 あたしの目の前の数字は全く理想の数字を示していた。ラポの隅に飼っている、モルモット鼠のイチゴに駆け寄った。
「イチゴ、やったよ。やっと完成した。今までありがとうね。これでイチゴを楽にしてあげられる」
 イチゴの小さな体を掌に乗せて頬に摺り寄せる。イチゴはキューと小さく鳴いた。
 あたしの研究が遂に完成した。表向きの研究とは違うあたしが本当にやり遂げたかった事。
 ”成長遅延剤”
 その名前のままの品であるそれは、今、平均七十歳までしか生きられないあたしたちの寿命が倍以上に延ばす事が出来るのだ。現に、どんなにきちんと世話を見ても三年しか生きられない新種モルモットのイチゴが十年も生き続けている。その上、その体は殆んど老いていないのだ。
 実際、あたしも三年前に自らの体に実験的に薬品を投与した。あたしの体は、三年前から殆んど成長していない。
 今、あたしたち人類は確実に滅びの方向に進んでいる。このままでは、十数年以内にあたし達は滅ぶだろう。いや、計算上で言うと、十数年以内に世界は水没する。けれど、それは何も手を尽くさなかった場合の結果。あたしは、ただ死を待つ人間にはなりたくない。死はどんなにあたし達が足掻いてもいずれ訪れるものだ。寿命を延ばすことが出来ても、死を止めることは出来ない。それに、終わりが在るからあたし達は足掻けるのだ。たくさん足掻いて、しっかり死ぬ。
 そして、この地球が終わるその瞬間まで人類は付き合わなければならない。あたしはそう考えている。あたしは、あらゆる知識を手に入れた。そして、今も吸収し続けている。あらゆる事象を知り、あらゆる世界を知り、あらゆる事を理解した。そして、地球の未来がそう長くない事も解った。そして、その原因があたし達人類だという事も。



 この薬は、あたし達の罪への罰だ。苦しんで苦しんで、そして、もう救う事も叶わない適わない敵わない世界をせめて見守って…。
 あたしは、イチゴの体を軽く手の内に包み彼女の小さな口にキスをする。
「ありがとう、イチゴ。本当に。どうか安らかに…」
 そっと、イチゴの体に注射器を刺す。イチゴはキーと鳴いて絶えた。
 この薬は、残酷だ。
 あたしは、イチゴの体を埋葬しようと立ち上がりラポの出口に向かう。パソコンの前を通ったとき、丁度メールを受信した。片手でイチゴを持ったまま、マウスをクリックする。そのパソコンは、五体あるラポ内のパソコンの中で一番あたしが気に掛けているパソコンだ。これは主にハッキングに使っているのだ。そして、ここに届くメールは全てハッキング先のあらゆる組織や企業がどこかに向けてメールを送ったときに、そして組織・企業宛てにメールが送られたときに、そのメールがコピーされてあたしの所にも届くようになっている。
 そのメールは、クラッシャーによる全メンバーへのメールだった。暗号文になっている。解読は簡単だ。あたしは、メールを解読ソフトにかける。

『>>>>>DATE>>07070100>>>>>END OF THE WORLD>>>>>URANIUM>>>>>ALL MEMBERS』

 クラッシャーの計画が遂に決まった。
 クラッシャーは、世界を滅亡へ走らせた原因の人間たちに少なからず憎悪を抱いている人間たちの集まりなのだ。クラッシャーのメンバー達は死など恐れていない、そして世界が消えてなくなってしまう事など恐れていない。彼らの行動はいつからかひどく矛盾を抱いてしまった。
 このメールの意味は、前にハッキングした時に見た計画を示しているのだろう。
 その計画とは…世界中に点在する原子力発電所を爆破する、と言うこと。
 そんな事をしたら、地球は核で汚染されることになり、地球上のあらゆる生物は被爆する事になる。
 今でさえ紫外線と熱で外で暮らすのは難しい。地下に潜れば、生き残ろうと思えば生き残る事は可能だ。そう。あたしは生き残る事は出来る。けれど、それを実行するサトルやココ、柳達は?地下に住む事の出来ない貧しいもの達は?
 確実に死に至るだろう。


 あたしは、賭けに出る。
 カプセルの中で眠る柳。かなり回復をしている。その内目覚めるだろう。けれど、あたしは彼らを死なせたくない。こんなに誰かを思う何てことをしたのは生まれて初めてだ。だから、あたしは…言い訳をするようにカプセルを開けて、柳の疵の残る腕に消毒液を吹き掛ける。そして、あの成長遅延剤の入った注射器の針をゆっくりと刺し込んだ。
 計画発動の七月七日まで後三週間。

 七月七日は、あたしの誕生日だった。


 久方振りにサトル達の住むトウキョウのアジトに行った。柳の手術後は一度も訪れていなかった。二人ともメールと電話でのやりとりのみだった。
 久し振りのあたしに、ココは嬉しそうにコーヒーを入れて迎えてくれた。
「凄く久し振りね。嬉しいわ、ユキに会うととても幸せな気分になる」
「ふふふ、ありがとう。あたしもココに会うと、とても楽しい気分になるわ」
 抱擁を交わして、コーヒーを受け取る。薄汚れたソファーに座るとサトルが現れた。
「ユキ…久し振り。柳の調子はどう?」
「ええ、順調に回復しているわ」
 サトルは、あたしの隣りにどかりと座ると、ココにコーヒーを頼んだ。
 柳に成長遅延剤を投与した事は黙っていた。遅延剤を投与すると、怪我の直りが遅くなる。たぶん、三週間後には間に合わないだろう。あのメールはサトル達の元にも確実に届いている筈だ。けれど、彼らは今までと何一つ変わらない。
 あたしには、この星が壊れてしまわない限り生き残る術がある。死を恐れない彼らに何を言っても無駄だろうけれど。あたしにとって、彼らは大切な存在だ。
「全治どのくらいって感じ?」
 銃に弾を込めながらサトルは何気無く聞いてきた。少しだけ、サトルが緊張しているのが伝わる。何に緊張しているのか…完全に訓練された彼らの心理状況をはっきりと知るのは難しい。柳が作戦に参加できないかもしれないことか、弾を込めていることについてか…とか。
「そうね…全治一ヶ月と言ったところかしら。後遺症の心配は無いわ。柳の利き腕はどちらかしら?」
「左だ」
「さすがね。右腕は少しだけ不自由になるかもしれない、まあリハビリをしたら治るでしょうけれど。左腕には傷一つ無かったわ。微妙に急所が避けられていたことにも驚いたけれど、利き腕には傷一つ無いのを見たとき、思わず身震いがした。貴方達の組織の教育の程の恐ろしさ」
「褒めても何も出ないぜ」
「出ないことを望むわ」
 弾を込め終えたサトルは、あたしを誘って外に出た。ココが、せっかくコーヒーを用意したのに、と怒っている声が聞こえた。
 地上は陽が恐ろしく射していた。あたしは紫外線の人体被害を予防する為に、DNAをいじくってある。たぶん、サトル達も仕事の時に変な意識を使わなくてすむようにそういうことを施してあるのだろう。日に焼けることは焼けるのであたしはパーカーを羽織る。
「おいで」
 差し出された手をとり、あたしは崩れたビルの上に上る。
「打ってみる?」
 サトルは、銃を差し出してきた。あたしは受け取る。八ミリのコルト・パイソン。相当古いもので、たぶんサトルの趣味の品だろう。あたしは、訓練の時みたいに構えて、打つ。
 打つような激しい風と街を飲み込む海の揺れもあって、足元が震えた。
「痛ぅ。骨にくる」
「訓練受けてるんだろう?情けないなあ」
「あたしが普段使うのは、オートよ」
「イーグル?」
「いいえ、ベレッタ」
 へー。サトルは興味無さ気に自らも銃を構え立て続けに四発打った。
「爽快…とか?」
 あたしはサトルの顔を覗き込んだ。
「俺は、オートよりもこっちの方が好きだな。個人的にはね。仕事の時には、オートを使うけれど」
 骨に響く感じがいいんだ。サトルは、最後の一発を打ち放った。空へ。弾は虚空へと消えた。
 激しい青だ。空はひたすらに青い。痛々しい。すぐ下には海。そう、ここはもう既に水没している。所々に、高かったビルのみが顔をだす。けれど、それさえももう傾いてしまっている。高速道路の跡が見える。崩れた道路。
 きっとすぐに世界は水に飲まれてしまう。あたし達は還元されるのだ。元あった世界にここは戻るのだ。一面の水世界。ここは水の星になるのだ。熱き水の星。
「あたし達はバカね。こうなってしまったら、どうしようもないのに。まだ足掻いてる」
「だから、人間、何だよ」
「あたし、銃なんて嫌いだわ」
「…君が平和主義者だなんて初めて知ったよ」
「この世に平和を望まない人なんて狂人か英雄のどちらかね」
「何だそれ」
 サトルは、さらに弾を込める。地上はとても熱い。サトルのぱさぱさの灰色の髪から汗が滴った。
 あたしは、その髪に触れる。
「これ、天然?」
「まさか。紫外線にやられたんだよ。今は大丈夫だけど、昔は貧乏だったからね」
「でも、良い色だわ」
「ユキの髪は何色?」
 弾を込め終わったサトルは、あたしの長い髪に手をかけた。今、あたしの髪は色を抜き過ぎてぱさぱさに傷んでいる。
「うすい茶色よ」
「色、抜いてるの?」
「ええ」
「ココの金髪よりも無残だね」
「失礼ね」
 サトルの手を振り払った。でも寸前でサトルが手を離した為、あたしはバランスを崩してサトルを道連れに倒れこんでしまう。
 サトルの灰色の髪越しに太陽が見えた。大きな大きな太陽だ。昔、太陽はもっと小さかったと誰かが言っていた。
「柳の髪が一番綺麗だ。あいつは、漆黒の美しい優性の髪を持っている。今は、青なんかに染めてしまっているけれど」
「でも、あたしは無残な髪も好きだわ。とても」
 あたしは、サトルの髪に手を伸ばす。不意に、サトルがあたしの胸の上に全体重をかけた。
 心臓音を聞くみたいに、サトルの耳があたしの胸に押し付けられた。高鳴る…心臓が。
「生きてる」
「重いわ。サトル」
「喋ると、お腹が動く」
 あたしは、わざと大きく深呼吸してみせる。
「気持ち良い」
 お腹の辺りがむず痒い。サトルの髪があたしの胸の上でさらさらと揺れた。いつの間にか、心臓も普段通りのリズムを取り戻していた。あたしは、そっと手を伸ばして、サトルの髪を撫でる。まるで、子供をあやすように。すごく暑い筈なのに、サトルの温かさが心地好かった。
 サトルの手があたしの腰に回り、パーカーの下…キャミソールの下…肌にゆっくりと手を這わせる。とてもくすぐったい。お臍、お腹、胸、首筋、耳、瞳、頬…そして唇。サトルのかさついた、けれど温かい唇が、あたしの体を這い回る。気持ち良い。
「ユキ。愛撫、してあげる。太陽みたく」
「何それ」
 サトルは愛撫、といったけれど彼のキスはとても優しくて、柔らかくてまるでおやすみのキスみたいだった。けれど、激しく、燃える炎のような、獣のような。
 あたしの体を、あたしじゃないものが支配スル。火照る体。カケルの背中に、思わず爪を立てる。痛ぅ…、サトルがうめいた。痛みなんて慣れてるくせに。
 あたしの中にサトルが存在している。あたしは、サトルをあたしだけのものにしようと放すまいと体を仰け反らせる。
「ユキ」
 あたしは汗で滲む視界越しにサトルを確認し、彼の胸にキスをする。
 ヴァギナをサトルが支配し、ペニスをあたしが包容する。
「アイシテル」
「カケル…」
 熱い熱い太陽の下、崩れ落ちたビルの上であたし達は紫外線に焼かれながら果てた。

 ココはまるでセックスを知ったばかりのガキみたいに身体を繋ぎあうあたし達を笑った。けれど、あたし達は、残り僅かな時を惜しむようにお互いを確かめ合った。
「まるでニセモノであるものをホンモノだって無理矢理にでも信じようとしてるみたい」
 ココは、あたし達の間に少なからずある不安をまんまと言い当てた。
 それでも、だからこそあたし達はセックスを繰り返す。こんなもので手に入るものなんてほんの僅かなのに。それでも、それに縋りついた。連日、互いに行き来した。遠い道のりなんて関係なかった。危険なんて関係無い。そんなものクソクラエ。
 廃墟で。研究室で。アジトで。地下道で。身体を、繋げ、確かめる。ここに貴方がいることを。

 世界の崩壊まであと五日。サトル達にも準備があるらしく彼は悔しそうに、二日間は会えない、と言った。あたしは、彼の瞼にキスをして囁いた。
「五日後。七月七日は、あたしの誕生日なのよ」
 サトルは、今にも泣きそうな顔をして目を閉じた。あたしは世界中を罵倒しながらサトルの眉目にキスをした。罵詈雑言を並べる心でサトルをアイスルと叫ぶ自分を更に罵りながら。
 たぶん、彼らはあたしが計画を知っていることを知っている。それでも、野放しにする。理由は簡単だ。あたしが誰かに計画を漏らしたとしても、すぐに抹殺できるから。けれど、あたしは誰にもクラッシャーの計画を漏らしてはいなかった。また、あたし以外に気付いた人はいないように思われる。
 世界は、変わらずふしだらに平静。
 それでも、あたしはノアの箱舟を少しずつ確実に作り上げていっている。会社が所有している動物達はすでに地下施設に移動させた。柳も深い地下のラポに移動している。二日で作り上げなくてはならないのだ。少しでも、サトルと会う時間を増やす為に。
 地下といっても、そこは地上と変わらない…むしろ地上よりもいい空間だ。木も山も川も有る。巨大なパノラマ都市。元々、地上に住む人は少ない。地上は殆んどが水に沈み、紫外線で普通に生きるのは困難だ。
だから、きっとクラッシャーの計画で被害にあうのは贅を持たない者たちだろう。何て残酷。そんな弱いものたちを一掃して何になる。クラッシャーの真の目的はあたし達のような人間を殺すことではないのか…。目的と計画の矛盾に彼らは気付いているのだろうか。彼らはもう、何も見えていないのかもしれない。人間は愚かだ。
 あと僅か。僅かな時で世界は崩壊する。


 朝、目が覚めると世界が崩壊しているのだ。悪臭が立ち込め、どこからか苦しみ叫ぶ声が果てない咆哮となって聞こえるのだ。そんな夢を見て、目が覚めた。手元の時計を見ると、デジタルで”7/6AM0000”と示されていた。あと、約二十四時間で世界が崩壊するのだ、そう思うと何だか体から力が抜けていくようで、心が空虚になった。唇を噛み締め、深く深呼吸をする。こんな所で呆然としている訳にはいかない。あたしは、ジーパンを履いて鮮やかな花の描かれているキャミソールワンピースを着る、腰に蝶のチェーンベルトを巻く。今日で最後なのだ。たとえ、あたしもサトルも生きていてもきっと二度と会えない。少しでも綺麗でいたかった。
 メイクを施し、髪を軽く結い、爪にペインティングを…。ヒールが低めの革のミュールにはひらひらと舞う蝶が捺されている、あたしのお気に入り。
 部屋の奥に行き、ベッドの下の引き出しを開ける。そこにはずらりと並んだ武器。拳銃から刀、ナイフ…あらゆる種類が並んでいる。けれど、どれもあたしの手に馴染んだものばかりだ。その中から、改良済みで軽量化を施してあるベレッタを選び弾を確認して、大腿部に巻き付けられたホルダーに収める。残りの武器は全て地下に持って行くようにと部屋の管理担当に指示してある。
 部屋にあるパソコンがきちんと起動しているのを確認する。明日の午前零時にメールアドレスを保持している人たち全てにあるメールが送られるというプログラムが施してある。内容は、七月七日午前一時に世界中の原子力発電所が爆発を起こす…という警告メール。それを止める事の出来ないように、一時間前に送る。人々はただ逃げ惑う事しか出来ない。それを見て、楽しむ趣向は持ち合わせてはいないが、人間の人間たるところが見る事が出来るだろう。マザーは地下の研究室にある、サトルの元に行く前にもう一度確認しなければならない。
 パソコンのそばに置いてある簡易の注射機器をカバンに入れる。
 プログラムの確認をし、部屋中を見渡す。
 ドアノブに手を掛け、そっと振り返る。もう戻らないかもしれない戻れないかもしれない。…どんなカタチであれ、あたしが十何年間も過ごした部屋なのだ。…ありがとう…ふっと部屋の空気が動いた気がした。


 乾いた大地に吹き付ける、熱風。零れる光は恐ろしい程に大きい月明りのみ。もうすぐ夜が明ける。
 地下道に少し水が入り込んだため、最新型のモーターボートを持ち込んだ。だから、ナガノからトウキョウへの距離はかなり縮んだ。二時間もあればトウキョウへ行けるようになった。
「ユキ」
 背中から掛けられた声に振り返る。振り返った瞬間、ココの拳が頬元に向かってきて何とか掌で受けたものの、じんじんと腕が痺れた。
「何なの、ココ」
「ユキ、嘘ついたでしょ」
 見事な右ストレートを繰り出して来た手をひらひらとさせながら、ココは微笑んだ。その小悪魔的な微笑みに失笑をおぼえながらも、あたしは正直に頷いた。
「やっぱりね。柳、本当に全治一ヶ月なの?」
「カプセル治療を行っているわ。だから、本来は一週間程度で完治する。けれど、ある薬を彼に打ったの。ココ、あなたにも打つつもりよ、その薬…成長遅延剤を」
「成長、遅延剤…?」
 深く頷いて、肩から掛けた小さなバックから簡易の注射機器を取り出す。ココはそれを見て、一瞬たじろぐ風を見せた。けれど、すぐに毅然とした目であたしを見上げた。
 あたしは、液体の入った小さな壜を彼女の前で振って見せる。
「…何なの、その薬」
「その名の通りの薬よ。正確には、薬…とは違うわね。ウィルスよ」
「ウィルス…危険じゃあないの?」
 呆けた顔で、間抜けなことを聞いてきた。あたしは、敢えて突っ込まずに受け流して話を続けた。
「危険性はまだ何とも言えないわ。でも、計算上では危険性は見られないし、生体実験でも今の段階では異常は見受けられないわ」
 ココは眉間に皺を寄せて、唇を噛んだ。
「ココ…これはあたし達の罪への罰よ」
「例の情報を知っているのはあなただけ。…神様にでもなったつもり?」
「まさか。そうね、これは義務と言った方が正確かもしれない。あたしは生き残るわ、絶対に…もしかしたらあなた達当事者も生き残るかもしれない」
 人の人生は短いわ。行き急ぐ程短い人生を途中で断ち切られる人が大勢出るのよ。あたし達、生き残る者はそれを深く受け止めなくてはいけないわ。
「神程の傲慢を揮うのはあなた達だわ」
「アハハハハハハハハハハ………」
 狂ったように腹を抱えて、ココが笑った。無音にさえ感じる深い闇夜にココの笑い声がこだました。
「っふ、その通りだわ。生き残る事は困難かもしれない。けれど、もし生き残ったらあたしは世界の終わりを見届けたい。見届けなければ…」
 そう言って、ココは細い、それでも筋肉の付いた腕を差し出してきた。真っ直ぐとあたしを見詰める瞳に陰りは無く、薄く月光が映る。
 そっと腕を持ち上げ消毒液を腕に吹きかけて血管に細い針を刺し込む。
「ユキ。サトルにも?」
「ええ」
 ゆっくりと針を抜いて、海に注射器を捨てる。
「少し眠ると良いわ。異質なモノを体内に入れたのだから」
 額に掛かる髪が揺れて、あたしはそっとココの瞼をなぞるように指先で撫でる。
「人間は恐ろしいわね」
 そっと目を瞑ってココが呟いた。心臓がしんと唸った。


 あたしの耳元で温かく優しい息遣いが聞こえる。背中をサトルの確かな胸に預けながら明けていく空を眺める。強い風に流される雲の間隙から零れる黄金の光の筋がまるで、あたしたちを導くように目の中でふらふらと揺れた。
 今、あたしとサトルは崩壊したビルの屋上にいる。広がるのは変わらない廃墟とそれを飲み込む海の面。ビルの壁に背を預けあたしを抱くサトルの表情を見る事は出来ない。
 あたしは空を見上げて静かに祈った。もう二度と見られないものへ。
 最上級の幸福へ。
 サトルは後手にあたしを強く抱き締めた。少し苦しかったけれど何も言わなかった。空から眩しい光が降ってくる。あたし達はこれらを全て冒すのだ。
「お願い、ユキ。アイシテルって言って」
 呻き声のようなサトルの声が体中に響いた。あたしは固く目を瞑り深く深呼吸をする。堪らなく苦しくて苦しくて…あたしの声は酷く掠れていた。少しでも美しいものをサトルにあげたいのに…。
「っあいしているわ、サトル。…愛してる愛してる愛してる………」
 生き残ると解っているあたしでさえも恐ろしいのだ。それを実行するサトル達がこれから起こる全てのことを恐ろしいと思わない筈が無い。訓練されていても彼らは人間なのだ。冷酷になりきる事は出来ないし、自ずと思考する事だって出来る。だから、彼らだって気付いている。彼らの計画の無意味さ、罪深さ。
 恐ろしくて恐ろしくて何だか息がうまく出来ない。眩しい光だけがあたしの瞳を侵蝕してあたしは生まれて初めて本当の涙を流した。
「泣かんでよ、ユキ。お願いだから、ユキっ…」
 あたしを強く強く強く抱き締めサトルがウメク…。こんなとてつもない不安を抱いたのは初めてだ。大切なものを失う事が恐ろしくて堪らない。祖父を失ったときにさえ涙を流せなかったというのに…。
 深く体を折り曲げてあたしは激しく泣いた。あたしの鳴き声がまるでケモノの低い遠吠えのように響いた。苦しくて苦しくて、それでも止まらない嗚咽が悲しかった。こんなにも苦しいのに、サトル達を引き止めない自分の愚かさが憎らしかった。愛とか憎しみとか悲しみとか苦しみとか、初めて味わうあらゆる感情が交錯して、あたしの涙は狂ったように流れ続けた。
「ユキユキユキユキユキ…」
 遠くでサトルの叫び声が聞こえて、嗚咽を吐くあたしの唇が塞がれた。
 サトル…。
「ユキ」
 あたしは深呼吸をする。目の前にはサトルの顔があった。いつの間にか押し倒されていたあたしは、ゆっくりと呼吸をしてコンクリートの冷たさに神経を注いだ。熱気を帯びていた体が少しずつ冷静に平静になっていく。ソウダ水のようだと思うと、何だか可笑しかった。
「何、笑ってるの?」
 不思議そうにあたしの顔を覗き込むサトルの顔が妙に真剣で、更に可笑しさが増した。
「何?」
 何も言わないあたしを見て、サトルが顔をしかめた。
「っふふ。何でもないの、ただ素晴らしい」
「何が?」
「全てが」
 あたしはサトルの胸に手を当ててそっと目を瞑る。掌にサトルの体温と、心臓の動きが伝わった。それに合わせるように呼吸をすると、あたしとサトルは一つになる。
「嗚呼…本当に素晴らしい」
 少しだけ重たい瞼をゆっくりと開ける。サトルの顔。朝陽が全てを金色に変えた。
「愛してるわ」
 あたしはゆっくりと起き上がった。

 細いけれど逞しいサトルの腕に針を突き刺す。サトルの視線が針で無く、あたしに注がれている事に気付いて、思わず俯いてしまう。何だか、悪い事をしている気分になった。
「大丈夫」
 それを見抜いたのか、サトルがあたしの頭をそっと撫でながら言った。何が大丈夫なのか、それでもあたしは安心してゆっくりと針を抜いた。
「この薬、本当に効くの?」
 にやにやと笑いながらサトルは空になった注射器を手にとった。
「サトルには効かないかもしれないわね」
 注射器を奪うように取り上げて、あたしが微笑むとサトルは抱き締めてキスをくれた。
 あたしは成長遅延剤をココと柳に打ったことをサトルに打ち明けた。そして、サトルにも打つ、と。たとえ、貴方が拒否したとしてもココに手伝ってもらってでも打つ、とあたしは彼の瞳を真っ直ぐに見詰めて言った。サトルは、あたしを強く抱き締めてアリガトウと言った。アリガトウ、と。
「ユキ。俺はもし生き延びたとしても、いつか自分の罪の重さに負けてしまうかもしれない…人間は弱いから」
「それでも、貴方は生きるの。人間は、強いもの」
 あたしはサトルの頭を掴み、ケモノのようなキスを降らす。額に髪に頬に瞼に鼻に唇に……。サトルを食す。あたしの体内に彼を蓄える。
 あたしの体中にサトルが広がり、あたしが溢れ出す。
「でも結局は弱いのね、人間って。だって、あたしは自分の欲望を抑える事が出来なかったんだもの…」
 本当だったら貴方たちの愚かな行動をあたしは阻止すべきなんだわ。あたしだったらそれも可能だったかもしれないんだもの。けれど、あたしはそれをしなかった。変わりに、あたしはそれが起こることによって、地球にどのような影響が起こるか、また人間がどのように変化するか…それを観測する為の準備をしたわ。結局のところ、あたしは知りたいのよ、人間とはどんなものか…地球の事、宇宙の事、世界の事。いまだ誰も到達出来ていない事実と知識の極地、そこに到達するにはこんなところでは死ねないのよ。そして、これから起こることは、いまだかつて無い事。だから、それを知るには絶好の機会かもしれない。それが起こった先を見たい、知りたい。その欲望を抑える事が出来なかったのよ。
「一番、愚かで恐ろしいのはあたしだわ」
 大切なものを投げ打って、手に入れる知識や事実にそれほどの価値があるかどうかさえも解らないというのに。
「俺たちが間違っているのは知っているんだ。けれど止められない。俺たち以外の人間たちへの激しい復讐心を止められない。人間は欲望のイキモノだ。全ては無意味だって知っているのに…」
 自分を吐き出したら止まらなくなる。まるで懺悔のようだ。苦し紛れに、サトルがあたしの体を全てスベテ抱き上げた。あたしはサトルの胸に顔を埋める。
 サトルの体が微かに震えているのが解った。心臓が縮まるように痛んだ。
「死んでどうにかなるものでもないんだ。俺の生まれた島が沈んだのだって、今ここで生きている人たちの所為じゃあないって事くらい解ってる。でも、止められない。理屈じゃあないんだ…」
「だから生きるの。何としてでも生き残るの。死んで償う事ほど簡単な事は無いわ」
 サトルの体に手を回す。細い。
「戦争やテロは多くの人間の、現在とか過去とか未来とか夢とか愛とか、そういう貴い物を奪うのよ」
 人類が地球上に現れて何千年。気の遠くなるような永い時の間に、何度人間はそういう物を壊してきたのだろう。憎しみは絶える事を知らない。
 どうしたら、みんなが幸福に熟れるか何て事、理解しているくせに。生き抜く為ではなく、力を誇示するためや欲望を果たす為に人を傷付ける。体に付いた傷は消えても心には深く残るのだ。それは自身の心にも残っているはずなのに。
 ……もう論じても遅い。スベテは手遅れだ。


 七月六日午後十時。
 それまで、あたしはサトルと抱き合ってキスをしてまどろみながら話をした。お互いの過去のこととか…幼い頃のこと、サトルの生まれた島のこと、あたしの今までの生活、サトルが組織に入ってからのこと、ココや柳と出会ったときのこと、ココのこと、柳のこと。これから先のこと意外、あらゆることを話した。
 午後九時四十五分。地下に戻ると、ココが最後のコーヒーを入れてくれた。抱き合って抱擁を交わして、約束した。
 午後九時五十五分。地下道へ降りるとソウシがいた。ソウシとも抱擁を交わして彼には液体と注射器を渡した。彼は、ココに聞いたよと言ってあたしに打ってくれと腕を差し出した。
 午後九時五十九分。サトルがあたしを強く抱き締めて言った。
「約束。いつか、世界中の知識を手に入れて俺を探し出して。それまで俺達は生き残るから」
 信じている。
 あたしは絶対に忘れないように、サトルを強く強く強く抱き締める。この温かさを忘れない。
「ユキ、柳をヨロシクね。あたしも絶対約束を守るから」
 ココがあたしの頬にキスをくれた。
「俺の情報網と持ってる情報全部あげるよ。約束を守ってもらわなきゃいけないからね」
 ソウシがいくつかのディスクを渡してきた。そして照れながらもあたしの目を見詰めながら微笑んだ。
 あたしはそれを受け取って、ボートに乗り込む。あまり物を考えないように全神経を戒める。さもないと、今にも塞き止めている何かが爆発して溢れてしまいそうになるから。心臓が潰れてしまいそう。
 ボートに立っていたあたしは、水の揺れで思わず倒れそうになった。びっくりして手どこかに突こうとしたけれど、どうにも間に合いそうに無くて、あたしは目を瞑った。
「ユキっ…」
 腕に強い痛みを感じて体が宙に浮いた。
「サトル?」
 目を開けた次の瞬間には、あたしの体はサトルの腕の中に有った。
「サトル…?」
 あたしは、息を止めてサトルの顔をまじまじと見る。心臓が壊れてしまいそうなくらい痛んでいる。圧縮されて圧縮されて…ああ、息が出来ない。あたしは思わず目を瞑ってしまった。
 あまりにも苦しげなサトルの視線に。
「…っユキ…。ユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキユキっ……―――」
 あたしの頬にサトルの涙が落ちた。
 心臓が痛くて痛くて痛くて痛くて、あたしは喉の奥に詰まっているものを耐え切れずに思わず吐き出してしまった。
 …違う。そこにあたしの意思なんて関係なかった…。
「ずっと一緒にいて、行かないで。愛しているのよ、サトル……サトル」
 もうあたしには何も考えられなかった。考えよりも先に体が動いていた。サトルの体に回した腕、サトルの名前を呼ぶ唇…。
 遠くでココとソウシのすすり泣く声が聞こえた。
「愛してる。愛してる…ユキユキユキユキ………」
 サトルの声がどんどん微かになっていく。嫌だ、聞こえない。
 もっと、あたしの名前を呼んで。
「ユキ。どうか、約束を…」
 不意に、あたしの体がまた宙に浮いた。そして、一瞬体が揺れたかと思うと、ボートのエンジンが唸り、オート操縦を開始するブザーが鳴った。
 一瞬。一瞬でサトルたちの姿が遠ざかった。
「サトル―――――――――――――――――――――――――」
 あたしは膝を抱えて息を呑む。
「っあ                          」
 声を出した、つもりだったけれど声にはならなかったのか、あたしの耳には水の割かれる音とモーター音しか聞こえなかった。


 七月七日午前零時。
 あたしは、地下の研究室で柳の眠るカプセルにもたれかかりながら泣いた。涙がこんなにも流れるものなんて知らなかった。
 午前零時二十五分。警報機が鳴り響いて、あたしは驚いて顔を上げた。研究室のドアを激しく誰かが叩いていた。あたしは立ち上がり外に設置してある監視カメラの映像を見る。そこにはヨリコさんがいた。
 あたしはドアを開けた。
「ユキ様、これはどういう事ですか?あのメールは」
 髪を振り乱して泣きそうにぐしゃぐしゃな顔をしたヨリコさんは、ほぼ半狂乱の状態だった。
「ああ……。辛いけれど、メールの通りよ。どうか平静を。どうか…」
 一瞬、何の事を言われているのか解らなかった。久し振りにたくさん泣いたせいか、頭がぼうっとしていた。
「…ユキ様?どうかなさったんですか…?」
 ヨリコさんはあたしのぐしゃぐしゃの顔を見上げて目を丸くした。早くも彼女は平静を取り戻したようだった。
「ユキ様。今、外はパニック状態です。大勢の人間が地下に逃げ込もうとしています。あなたのお父様もお母様ももう避難されました」
「そう、良かった」
「でも入りきらない人、メールに気付いていないもの、逃げる事のかなわない者が大勢います」
「そう」
 あたしは、柳の眠るカプセルの側に跪いた。
「今、何時?」
「…十二時五十六分です」
「あと四分ね」
「…あの、その方が前に助けられた方ですか?」
「そうよ。あたしの大切な人の仲間よ。あたしにとっても大事な友人よ」
「そうですか。良かったですね」
 あたしは柳のカプセルを開き、覚醒モードにする。カプセルに満ちていた液体が引いていき、柳が咳き込んだ。
 ビー、っと音がして、ヨリコさんが辺りを見回した。
「これは?」
 ピッピッピッ、と時を刻む電子音。
「残り一分のカウントダウンよ」
 あたしは、急いで顔を洗い防護服を着る。そして、地上へ出るためのエレベーターに走る。
 それを呆然と見ていたヨリコさんが、後を追ってきた。
「待ってください、何処へ行くんですか。止めて下さい、外へ出るなんて。被爆しますよ」
「大丈夫よ。防護服を着てるんだから」
「でもっ」
「それよりも、彼…柳を宜しく」
「ユキ様っ」

『・・・・2・1・・・・・・・・・0』

 全身が揺れた。世界が揺れた。立っていられないほどに。あたしとヨリコさんはお互いに支えあうようにして蹲った。
 震動はすぐに治まった。たった一瞬。一瞬だった。
「ああ…」
 あたしは唇を噛み締めて立ち上がる。足ががくがくと震えた。ヨリコさんに、お願い、と囁きエレベーターの起動を確認し地上へ向かう。
 何だろう。酷く寒い。厚い服を着て、さらに重たい防護服を着ていると言うのに…。
 ポーン、と間抜けな音が響いて、あたしは顔を上げる。視界が恐ろしく明るかった。
 いつもだったら、目の前には研究所の清潔感溢れるフロアが広がる。けれど、今は?
 目の前に広がるのは、ヒビの入った壁。砂埃の舞う床。強化硝子にさえヒビが入り、その窓の向うでは炎が揺らめいていた。エレベーターが機能するのが不思議だった。
あたしは、ゆっくり。でも確実に一歩ずつ外へと向かう。炎へと近づいているのに、妙に寒かった。ひんやりとした汗が頬を伝った。
 目の前の世界が、崩壊して行くのを感じて目眩がした。
 目の前に広がるのは無機物。あたしはぐにゃりとした足元の感覚に気付き、息を呑む。
 人、だ。



「ユキ」
 誰かに肩を引っ張られ、あたしは振り返る。
「柳…」
 あたしは目の前の人物が神様にさえ見えた。人間だ。動いている人間だ…。ゆっくりと息を吐き出し、あたしは柳を抱き締めた。ぼろぼろと涙が流れる。あたしは叫び泣いた。
「ユキ…」
 柳に抱き締められると、互いに厚い防護服越しだというのに彼の温かさを感じた。もう、溢れるものなど何も無い。
「サトルたちを捜さなきゃいけないわ」
 世界が崩壊する音。炎のうねり。
「柳。サトルとココ、ソウシは生きているわ。約束してくれたもの」
「うん」
「貴方はこれからあたしと永い時を過ごすのよ」
「ああ」
「永い永い時を。約束を守るために」
 柳があたしの顔を覗き込んだ。
「大丈夫。きっと見付かる。世界は圧倒的だけれど、あたしたち人間はそれ以上のスケールを持っているのよ」
 そう。きっと大丈夫。あたしが見つけてあげる。圧倒的な世界に於いても一つ一つの命のスケールのデカサを知っているから。
 だから、あたしは全ての知識を手に入れよう。全ての命の意味を知ろう。存在を知ろう。そして君に辿りつく。
 遥か彼方で命を削る、か細い吐息の音を知る。
 あたしの小さな体に芽吹いた、大きな炎の意味を知る。
 圧倒的な世界で生きる、小さな命の意味を知る。

 倒壊した世界で、あたしたちは生きる。




end