ある朝、目が覚めたら朝焼けがあまりにも美しくて生きていくのがおっくうになった。


花火


「どーこーまでもーとおくへーはーるかーとおくへー」
「それ、何の歌?」
「今、あたしが作ったの」
「ふーん」
 あたしの彼氏、大平昇平は実に興味無さそうにサッカーボールをもてあそびながらそう言った。
「昇ちゃん、真剣に聞いてないでしょ」
「聞いてるよ」
「ウソツキ」
 さり気にどーでもいいな…とあたし自身も思いながらポッキーをかじった。本日、二箱目のポッキーは変わらず甘かった。
 あたし達の会話はいつもこうで、1DKのあたしの住むアパートに偶にやってくる昇ちゃんは、チュッパチャップスが大好きな二十三歳だ。
汚いあたしの部屋。あらゆるものが散らばる部屋。めったにここに来ないくせに昇ちゃんの持ち物もたくさん。仕方ない、昇ちゃんの家はここなのだから。
「据子、ちょっちコンビニに行ってくる」
「何を買うの?」
「チュッパチャップス」
「じゃあ、ポッキーを買ってきてよ」
「ん」
 昇ちゃんは持っていたボールをぽんっと投げて、あたしはそれをキャッチする。
 このサッカーボールは昇ちゃんのトテモ大切なもので、たいていどこに行くときも昇ちゃんはこのボールとチュッパチャップスを持ち歩く。昇ちゃんはプロのサッカー選手だ。
「据子」
 狭い玄関で昇ちゃんが振り返った。昇ちゃんの天然性のヴラウンの髪が逆光でキラキラ光って見える。
「何?」
「お金貸して」

 ケータイの着信音にあたしは耳を塞いだ。
「出んの?」
「誰からか見て」
「えーとねー、誰だろう?番号しか出てないよ」
「じゃあ電源を切って」
 あたしの言葉に、昇ちゃんはためらいもせずに電源を切った。きっと、東京の音楽会社からの電話だ。
「据子、もう歌わないの?」
「歌わない」
「ま、据子の描くエロ漫画好きだケドネー」
 昇ちゃんは笑いながら言った。
 あたしは、エロ漫画を描いている。エロ漫画を描く前には音楽をやっていた。歌を歌っていた。バンドを組んでプロで活動していた。けれど、一年程前からあたしは歌うのをやめた。そして、漫画を描きだした。けれど、所属していたレコード会社から今でも誘いが来る。みんな、どうして歌うのを辞めたのか、と聞く。あたしは、結構売れたミュージシャンだった。
「あ。来週は多分会えんわ、俺」
「そう」
「練習があんの」
「あたしも来週は締め切りが詰まってたと思う」
「ふーん」
 昇ちゃんは、日本代表とかに選ばれるような秀でた選手では無いけれど確実だ、とあたしは思う。お互い、めったに会えないけど縛られるのが嫌いなあたしには丁度いい。昇ちゃん自身も、毎日会いたいとか思うタイプじゃあないから。

「何か、淡々としてるよね。据ちゃん達って」
「そうでもないと思うけど」
 親友の砂子は少しだけ不満そうにペコちゃんの棒付きキャンディーを舐めた。砂子とはもう十年くらい一緒にいる。砂子の彼氏は、あたしが組んでいたバンドのメンバーで今もプロとして活動している。
「…みんな、元気してる?」
「直樹たち?」
「そう」
「テレビとか見ないの?出てんじゃん」
「そうだね。出てた…あ、砂子。ここにこのトーンを貼って」
 砂子は、本屋に勤めている。本屋が休みの日とか、終わったあととかにいつも手伝いに来てくれる。彼女は、あたしが歌うことを辞めてしまったことや、エロ漫画を描いていることについて何も言わないし何も聞かない。あたしはそれに甘え続けている。
「あ、据ちゃん。昇平くんがインタヴュー受けてるよ」
 つけっぱなしのテレビで流れているニュースを見て、砂子は指を指した。
 ブラウン管の中で気だるそうに淡々と喋る昇ちゃんはまるっきりあたしの知らない人だ。これはあたしの知っている人じゃあない。あたしの知っている昇ちゃんは、どんなに苦しい試合でも嬉しそうにボールを蹴っているそれとか、あたしの部屋でチュッパチャップスを舐めているそれとか。
「昇平くんは、プレイさえ出来ればいいのよね。据ちゃんと昇平くんはよく似ているわ」
「昇ちゃんは一生懸命よ。でも、あたしはどうでもいいのよ全部。なんかおっくうなの全てが。だから、だらだらと漫画描いて、テキトーに生きてるの。だから、あたしと昇ちゃんは似ていないと思うわ」
 カッターでトーンを貼りながらあたしはポッキーを頬張った。
「ねーこーめーづきのよるにーさーよならーしたー」
 もうあたしは、まったくもってデタラメな音階で歌うことしか出来ないのだ。あたしは、スバラシイモノをウツクシイモノを創造しようと試みる、躍起になる、考える、ことに疲れてしまった。
「ねえ、あなたは何を見たの?据子」
「…世界ほどウツクシイモノはこの世に存在しないのよ」
「当然じゃない。だって、この世には世界しか存在しない」


『スエコ。あたし、直と結婚することにしたの』
 あたしが所属していたバンドのメンバーである、福山ヒサコから電話があった。ヒサコは、バンドではドラムをやっていて、今も直樹たちと一緒に活動している。直は、やっぱり同じバンドのメンバーでギタリスト。
「…でも、だって、直は慎也と」
 そう、ギターの飯島直は同じバンドのボーカルの山田慎也の恋人だ。ことのつまり、直と慎也はゲイなのだ。
『あのね、スエコ。あたし子供が欲しかったんだ』
「どうして、あたしなんかに電話してるの?砂子の方がいいんじゃない?」
『あんただからよ、スエコ。ねえ、スエコ。あんたは今、幸せ?』
 あたしの友人たちは、あたしの胸を深くえぐる言葉をよく理解している。
 あたしは、ヒサコに今から会いたい、と伝え無理矢理着信を終了させた。 
 どうして、ヒサコはあたしにそんな事を言うのだろう。だって、あたしはもうバンドとは何の関係も無い。ヒサコと取り付けた約束の時間は三十分後で、ジャージとトレーナーを着ていたあたしは着替えをしながら考えた。
 バンドのメンバーは基本的に幼馴染みで、慎也だけが小学校からの知り合い。でも、どちらにせよ付き合いは長くて、たしかにバンドからあたしが脱退したからって付き合いがなくなるような関係ではない。あたしに信じられないのは、ヒサコが子供を生むこと。そして、その相手が直だということ。
 財布とケータイだけもって、あたしはスクーターに乗ってアパートを出た。アパートの近くに棲み付いているシマ猫が塀の上からあたしを見下ろしていた。

「早かったね、ヒサコ」
 先に着いていたヒサコは、あたしを見て軽く手をあげた。少し濃いめのサングラスをかけて、珍しく髪を結っていた。他の客がちらちらとこちらを見ているのがわかった。
待ち合わせ場所にしたファミレスには時間が時間だけあって、高校生がたくさんいた。学校帰りなのだろう。声高の笑い声が耳につく。
「堂々としたものね。あんたがフクヤマヒサコだってバレバレじゃん」
「バレて困ることじゃあないもの。それにあたしはあたしだよ。あんただって元ユーメー人じゃん」
 変わらない乾いた声でヒサコは笑った。
「ねえ、スエコ。最近、楽しいことある?」
「特に無いよ。ヒサコは?」
 チョコレートパフェとプリンパフェ、どっちにしようか…ヒサコはアイスティーを頼んだ。あたしはプリンパフェを頼む。
「煙草、いい?」
「ええ。ねえ、あたしね赤ちゃんがいるの」
 あたしは、取り出した煙草を静かにしまった。ヒサコは、気にしなくてもいいという顔をしたけれど、あたしは小さく微笑み返した。
「慎也の子だよ」
 そう言ったヒサコは、あたしの知らない人みたいであたしはゆっくりと昔のヒサコを思いだした。
 幼い頃に両親が離婚してヒサコは母親と二人で暮らしていた。その母親も、ヒサコが小学生の頃に交通事故で亡くなっていた。それ以来、ヒサコは子供のいない福山という老夫婦に引き取られて暮らしている。ヒサコは自分は幸福だといつもいう。
「結婚するのは直とでしょう?」
「そうよ。でも、慎也の子よ」
「でも、直は慎也と…。直はゲイだよ」
「そうよ。けれど、直と慎也は子供が欲しかったのよ。そして、あたしも子供を産みたかった」
 アイスティーの氷がカラカラと音を立てて沈んだ。
「あたし、直と慎也と契約をしたの。あたしは別に直だろうが慎也だろうがどっちの子供でもかまわないのよ。あたしが欲しいのは子供」
「そう。じゃあどうやって直か慎也を選んだの」
 あたしは自分の言ったことの滑稽さに笑いを零した。つられてヒサコも笑った。
「結婚でいうなら、慎也は次男でしょう?で、直は長男。敢えて言うならだからかな?直は酒屋の後継ぎだからね。そして、赤ちゃんを作ることにして言えば直はゲイ、慎也はバイ」
「それだけ?」
「そう、それだけ。あたしは二人のことを愛している。それに、二人もあたしのことを愛してくれている。あたしには勿体無さすぎる幸福だわ」
 あたしはヒサコの幸福の秤を解さない。でも、彼女は彼女なりの幸福を掴んでいるのだ。だから、あたしは彼女のすることに何も言わない。その不思議な三角関係。
「あたし、直と慎也と一緒に住むの。もう部屋も決めたわ。引越したらまた住所とか教えるわね」
「子供、いつ生まれるの?」
「来年の七月」
 プリンパフェが異常なほど甘く感じる。とろとろの甘味。とろける。
「ヒサコ」
「何?」
 ファミレスから出て、スクーターにまたがりながらあたしはヒサコの車の窓を叩いた。
「ヒサコ、おめでとう」
 晩秋の空気が肌を刺す。


 あたしは、直と慎也を呼び出した。忙しい、と言いながらも彼らはぴったり時間通りにあたしのアパートの前に来た。あたしの住むボロアパートには不似合いにデカイ車。塀の上の猫が毛を逆立てていた。
 彼らは、あたしから呼び出されることは当然だと言う顔で、久々の顔を見せた。
「久し振りだね、据子。元気そうで何より…っていうか直樹とか砂子にあんたの事は聞いてんだケドネー」
 直がカラカラと笑いながら言った。あたしは、何も言わずに後部座席に乗った。
「据っち、これいる?」
 慎也が卵パンを渡してきた。
「いる」
 あたしは、卵パンをかじる。ポッキー以外のお菓子なんて久々に口にした。慎也は卵パンばかり食べている。窓からの風に乗って直のすうキャスターの煙が目に染みた。
「据子、どこにいけばいい?」
「海へ」
「お台場?」
「今日は時間あるの?」
「あるよ」
「じゃあ、国府津へ」
 国府津は、あたし達が生まれ育った町だ。海が目の前に広がるそんな町。その小さな海の見える町であたし達は生まれ、出会い、成長し、そして脱出。
「……了解」

 潮の香りがしてあたしは深呼吸して目を瞑った。苦しいくらいに晴れた空。煙草に火を点けて煙を全て飲み込むと、とてもとても苦しくなった。
「据子。俺、直とヒサコのことすげえ好きだよ」
 卵パンをかじりながら慎也が言った。あたしは、煙草とポッキーを交互に口に含みながらひたすら海を見詰めた。
 激しい音を立てて打ち寄せる波。昔は、この海で泳いでいた。今の時期じゃあとても泳げない。寒すぎる。あたし達は、ここで育った。この海は美しい。ゴミはたくさん落ちているけれど、美しいのだ。それらはとても正しく、そこにあるだけで美しい。あたしは、一体何をしているだろう。紫煙を胸の奥まで奥深くまで飲み込んだ。

 チョコレートの夢に欲情
 サヨウナラ あたしの海
 あらゆるものが打ち寄せる
 スクリーンの向こうで謳う
 あたしだけの真実
 他に何も要らないから
 唯一つ 美しいものを
 唯一つ それを下さい
 果てし無い 世界を
 果敢無い 現実
 チョコレートの夢に欲情
 アイシテル 世界の向こう

 少しだけ喉がひりひりした。冷たい空気のせいか、それとも久々に歌を唄ったからか。空気が微かに振動する音が聞こえた気がする。
「素晴らしい」
 直が苦々しげに、けれど悔しそうにそして泣きそうな顔で言った。
「どうして泣くの?」
 あたしは、慎也を抱き締めた。慎也は小さく首を振って言った。
「何で?据子の歌はマジすげえよ。俺、泣くし」
「そうね、泣いているわ」
「据子の歌は美しいよ」
 それでも、ねえ。どうしたら海よりも…世界よりも美しいものを創造できる?ねえ、教えて頂戴。
「ねえ、あたし何が正しいとか正しくないとかそんな事はどうだっていいのよ。ただ、みんなが幸福ならいいの」
「据子は幸福なの?」
 あたしの肩にもたれかかる慎也は、あたしの体に腕を回して力を込めた。
 あたしは幸福なの?
 あたし達は、狂った時計みたく全く間違った数字を示し、けれどそれはとても正しくて、正確。あたし達は、何も間違ってはいない。間違ってはいないということは、少なくとも不幸ではないと思う。
「慎也、直。ヒサコをどうか幸せに。貴方達にも幸福を」
 あたしは、真っ直ぐ直を見詰め、慎也の体に回した腕に力を込めた。強く強く。


 その日、あたしは初めて寮にいる昇ちゃんのケータイに電話をかけた。気だるそうな昇ちゃんの声が五回目のコール音の後に聞こえてきた。
『どーしたの?珍しいね、据子が電話してくるなんてさ』
「うん」
『どーしたん?』
「昇ちゃん。あたし今日、国府津に行ってきたの」
『家に帰ったの?』
「違う。海へ行ったの。あたし、久々に唄ったわ。直と慎也と行って、二人は泣いたわ。直がヒサコと結婚するの。ヒサコのお腹の中には慎也の子供がいるの」
『…え?いまいちよく解んないよ。直と慎也って、あいつらカップルサンじゃん。なんで、直がヒサコ嬢と結婚するの?』
 本当に混乱したように昇ちゃんは言った。昇ちゃんとあたしは高校時代に出会った。昇ちゃんはその頃すでに有名人で、ホープとして色んな雑誌なんかの取材にも応えていた。そのころ、あたしはと言えばぼーっとしながらただ何となく生活していた。けれど、その頃のあたしは何が美しいかとか解らなくて、あたしは歌を唄っていた。昇ちゃんとは、高校一年の夏に何となく出会った。すでにそれっぽくバンドを直樹達と組んでそれなりに活動していたあたし達は、文化祭に向けて音楽室で練習をしていた。そこにふらりと入ってきた昇ちゃん。そして何となく話をしているうちに親しくなり、そして、気付いたら付き合っていた。
「三人は本当の家族になるの。家族になるのよ」
『据子?』
「愛してるよ、昇ちゃん」
『据子』
「昇ちゃん」
『みんなで、里帰りしようか』
「え?」
『考えておいてよ』
 淡々とした昇ちゃんの声が耳元で聞こえる。遠くで聞こえる。枯れたようなざらざらして離れない、そんな声。あたしのかすれたセピア色の声と似ているようで全然違う。深い。
 みんなに伝えておく、と答え電話を切った。国府津の海でよく歌を唄った。サッカーの練習をする昇ちゃんを遠目で見ながら。隣りには砂子がいた。あの頃、あたしは歌を止めてしまう自分なんて考えられないほどに傲慢だった。だって、あたしは何も知らなかった。あたしたちにあるのは、あの小さな町の海。
 本当に美しいものを考えたことなんて無かった。そんな余裕が無かった。目の前にあるものだけで精一杯で、目の前の現実なんかで涙を流すことが出来た。あたし達の世界はひどく狭くて、飼い慣らされた犬が些細な反抗をするような行動を自由だと思っていた。今では考えられない。今なら、あの時をもっと充実させることが出来る気がする。そうしたら、あたしはもっともっともっともっと………。
「どうして、あたしにも歌を聞かせてくれなかったの?」
 砂子がブラウン管を見詰めながら言った。今日の午後が締め切りの原稿があるのに、まだペン入れさえ出来ずに紙と鉛筆と格闘していた。砂子に手伝って貰おうと呼んだもののまだ、手伝って貰うまでも作業が進んでいない。
 あたしの買ってきた大量のポッキーの中からいちご味のポッキーを選んで砂子はワイドショーの芸能ニュースを無表情に見詰めている。
「あたしだって、据ちゃんの歌を聴きたかった」
 あたしの目の前で、砂子が歌の話をするのは初めてだった。
「また唄ってよ」
 砂子のポッキーをかじる音が車の音に掻き消された。
「据ちゃん。唄ってよ」
 テレビを見詰めている砂子の目はテレビを見ていなくて、あたしは恐ろしくなった。
「据子はずるいよ」
 心臓が抉られるような…。
「据子は何もわかってない。一体、何を大切に守ってるの?バカみたい、据子らしくない。下らない」
 砂子?
「クダラナイ」
 ごめん。
「砂子。みんなで里帰りしようって昇ちゃんが…」
「…伝えておくわ。自分から、言えないんでしょう?みんなに」
 ありがとう。砂子は、黙々とトーンを貼りだした。
 なんだか、狂ってしまっていたわね、あたし達…砂子が呟く声がテレビの笑い声に溶けていった。


「スゲェ豪華」
 思わず声をあげた。
 プロのサッカー選手の大平昇平に、人気バンド”アッシュ”のメンバーが全員揃っている。ついでに微妙に人気のエロ漫画作家。
 平日の早朝から、あたし達は直樹の住むマンションに集まった。
「なんか、みんな超久し振りだあねー」
「昇ち。地元帰ってみんなで何するの?」
 卵パンをぽろぽろとこぼしながら齧っていた慎也が昇ちゃんの肩にもたれかかった。昇ちゃんは嫌そうに腕をどけながら慎也の口許の卵パンを奪った。
「あ、返してよ」
「喉渇く」
 昇ちゃんに齧られて半分になった卵パンは再び慎也の口に戻った。
「今日はねー。何となく帰るの。いいじゃん、みんなで同窓会みたいでさあ」
 チュッパチャップスのキャラメル味を舐めながら昇ちゃんは軽く笑いながら直の肩をぽんぽんと叩いた。
「何で行くの?」
 直は昇ちゃんを少し睨みつけた。きっと、身重のヒサコのことを心配しているのだろう。
「俺とー、据子と直樹はバイクで行くしー。直は、慎也とヒサコと砂子を乗せてってあげなよ、でっけえ車持ってんだし」
 直の鼻先にチュッパチャップスを突きつけた。直は昇ちゃんの手を跳ね除けて、ヒサコの手を取り車に乗り込んだ。後を慎也がひょこひょことくっついていく。砂子が直樹に、じゃあと声をかけて三人の後に車に乗り込む。
 あたしはバイクに跨りエンジンを入れる。昇ちゃんは、車に駆け寄って窓を叩いて砂子に食べかけのチュッパチャップスを咥えさせた。
「昇平、行くぞ」
 直樹が昇ちゃんを呼んで、昇ちゃんもメットをかぶりバイクに跨る。直樹が先導して国府津へ向かった。
 国府津を出てくるとき、あたしは直樹と一緒に出てきた。その時はまだスクーターしか持ってなかったから、ゆっくりゆっくり東京に向かった。昇ちゃんは高校を卒業してすぐに街を出てしまったし、直とヒサコと慎也は新幹線で上京したから。
 あの時もあたしは、直樹の後について走っていた。あの時は、東京へ。今は、故郷へ。海の見える故郷へ。


 国府津の海はとても激しかった。変わらず激しかった。
 あたし達はウルサイ車の音を聞きながら海を見ながら座り込んだ。それぞれ駅前のコンビニで買ったお菓子を食べながら。
風はかなり冷たかった。
「俺さー、ここ大好きなんだよねー。アンタらの事もここと同じくらい好きだよ。だって、この街で一緒にみんなですごしたじゃん。俺の思い出ん中にはオマエらがいんだよね。俺ってばロマンチストだから思い出って大切に思ってんだ。だから、思い出ん中のアンタらも超大切」
 チュッパチャップスを舐めながら昇ちゃんが言った。
 みんな、昇ちゃんが何を言いたいか痛いほど解っていた。昇ちゃんはいつも前を見ていた。昇ちゃんが一番、全てを楽しんでいた。あたし達には楽しむことが出来るのに、あたし達は一体何をしていたのだろう…。
「ねえ、話してあげなよ、据子。話さないのってフェアじゃあないと思うな。床の上で話すのには少し飽きたでしょ?」
 くるくるとチュッパチャップスの柄を回して笑う昇ちゃんは、昔と全然変わらない。変わらなく真っ直ぐ前を向いている。
 あたしの背にぴとりと密着するように昇ちゃんがあたしを抱き締めるように後ろに座った。ちょっと寒かったから少し気持ちがいい。みんなが、あたしの周りに近づいてきて座った。
「仕方ねぇなー。聞いてやるか」
 慎也がデカイ態度でどかりと座った。そして、卵パンをあたしにくれた。浜は砂じゃなくて石だからちょっと痛い。とりあえず、卵パンを齧ってみる。甘い。
あたし達はある意味、成長していない。ここではしゃぎまわっていた頃、あの頃のままだ。
「詰まんない話だよ」
「ならいいや」
 慎也が言った。同時に、隣りに座っていた直に殴られていた。
「昇ちゃんとセックスをして、抱かれたまま眠ったの。そしたら明け方に目が覚めた」
 あの頃住んでたボロアパート…あ、今の前のアパートね。そこの窓を開けたの。その頃は冬で、すっごい冷たい空気が痛いほどに入り込んできたわ。その向うに朝焼けが見えたの。
「朝焼け?」
「そう、朝焼け」
 あたしは傲慢にも唄うことで美しい世界を構築しようと思っていたわ。そんなの、できっこないのに。だって、世界はそこに在るだけで美しいのよ。あたし達がこんなにもそれを作り上げるのに困難しているというのに。
「生きていくのがおっくうになった」
 あたしはポッキーを齧る。
「でもさー、俺は据子のこと超キレーって思うよー。そういう物を作り上げる為に躍起になってるとことかさ」
 慎也が卵パンを齧った。
「そこに在るだけで美しいというのなら、アンタは充分美しいよ」
 直は煙草の煙を吐き出した。
「愚かね。愚直な人間はあたしスゴク好きよ」
 ヒサコは慎也から卵パンを奪った。
「あんたの唄は美しい」
 直樹はチロルチョコを数個口にほおった。
「涙が流れるわ」
 そこが一番純粋よ。砂子はペコちゃんキャンディーを舐めた。
「ねえ、据子。まだ、おっくう?」
「バカじゃない?あたしは昔っからずっとメンドクサーイって思って生きてきたわ」
 笑う。
 すごく気持ちがいい。海の音が気持ちがいい。
「あたしって単純だね」
 あたしを抱き締める昇ちゃんの手を軽く握る。昇ちゃんが頬にキスをくれた。
「ねー、直と砂ちゃんは結婚しないの?」
 慎也の言葉に砂子の顔が真っ赤になった。直樹が顔をそらす。数秒ほど間が出来た。まるで漫画みたいに。
 海の音が妙にうるさく聞こえた。
「えー、何?どうしたの?」
 慎也が砂子の前まで駆け寄って顔を覗き込んだ。
「あ…っと、あたし達…こないだ籍を入れたの」
 砂子は顔をそらす。直がじと目で直樹を見詰めた。もうみんな視線で物を語っていた。
「どういうこと?」
 ヒサコが直樹に詰め寄った。どうやら、誰も聞いていなかったらしい。というか、あたしは普段から砂子と一緒にいたのだから、と思うとなんか腹立たしい。
「どうして言ってくれんかったの」
 あたしも直樹を見詰めて、視線で詰め寄る。直樹は顔をそらしたままだ。慎也がとことこと直樹の方に駆け寄った。そして、そらした方向に顔を付き合わせた。直樹がまた顔をそらす、するとまた慎也が顔をつき合わす。そして微笑む。
 数度繰り返すと直樹は、観念したように溜め息をつく。二人の行動に誰もちゃちゃを入れる人がいなかったから。
「…砂子の…ハラにガキがいる…んだ、よね…」
「出来ちゃった婚じゃーん」
 慎也がケラケラと笑った。
「オマエらもそうじゃねぇかっ」
 直樹が慎也の頭を小突いた。
 もう、あたし達は呆然自失してしまった。慎也と直とヒサコのことだけでも頭痛いって言うのに、砂子と直樹までケッコンしてるっていうんだから。
「っていうか、昇ちゃん。あたし達も結婚しようよ」
「っていうか、ガキ作ろうぜ、ガキ。中出しー」
「…下品だよ、昇ちゃん」
「え?いつ入籍したの?」
「オメデトウじゃーん」
「ダブルオメデタ」
 もう何がなんだか解んない。もう狂った時計の針のことなんてさっぱり忘れて、あたし達は笑って叫んで騒いだ。なんだかすごく楽しい。たまらなく楽しい。
 こんな事ってかつて無い感じ。

 昔、よくこの海岸でみんなで花火をした。あの時、あたし達は何も知らずに、何も考えずに笑っていた。これから先の人生なんて無いみたく。一時一時だけで生きていた。それを忘れてしまうのはいつだろう。
見えていた世界は少しずつ変化し、その変化が自分自身のものであると気付く事無く、あたし達は生きていく。世界に比べたら、ひどく短い時間をビデオを早送りするように…。そこではあらゆる物に、ゆっくりと目を向けることができない。
 道を間違えてしまったら、もう戻る事が出来ないあたし達だから、せめてたまには休んだって良いじゃない。


 
 あたしは、エロ漫画を描いている。何だか結構売れている。唄うことは辞めない。辞められない。だから、まだ唄っている。ヒサコと砂子のお腹が大きくなって、バンド”アッシュ”はお休み中。昇ちゃんは相変わらずボールを蹴っていて、あたしの苗字はまだ変わらないけれど、少しだけお腹が膨らんだ。
 あたし達のベイビィが生まれたら、またみんなで国府津の海へ帰ろう。
 そして朝焼けを見よう。

 冷たい空気。差し込む優しい光。紫色の痛々しい空の隙間から降りそそぐ黄金を見逃すな。それらはそこに在るだけで美しい。
 ねえ、それでも君が美しいのは君がそこに在るから。醜いほどに這い蹲って、黄金に手を伸ばせ。その姿は美しい。ねえ、そのためになら、それを手に入れるためにならまだまだ進んでいける気がするよ。


 ある朝、目が覚めたら朝焼けがあまりにも美しくてまた今日も前を見て生きていこうと思った。




end