青い空だ。
 雨上がりの後の青空は、なお美しい。



青空。





 水溜りに、空とか俺とかが映っていた。
 久し振りに円山に呼び出された。電話を受ける直前まで雨が降っていた。ケータイの着信音が鳴り響いた時には、すでに空はクリアな青をたずさえていた。
「最近、忙しくてさ。会えなかったよな」
 いつもと変わらない、どことなく面倒くさそうな顔をして円山は時間通りに大学の屋上に現れた。
「そうだな。俺もなかなか連絡取れなかった」
 そんな、円山を見て、俺は思わずそう言った。
 ウソだ。実は結構暇をしていた。夏休みに、大学の研究室にこもるのもいささか飽きてきていたから。
「バイトとかしてたのか?」
「ああ」
 確かに、バイトはしていた。
「塾講師だっけ。大変だな」
「まあな」
 塾講師のバイトは週に三回。暇な毎日からしたら、そんなに大変な仕事ではない。
 同じ事の繰り返しみたいだし、単調な作業は俺にとって苦ではない。周に二回、夏期講習を受け持って、後一回は個別指導。生徒は頭の良いやつばかりで、ロボットとかフィギュアとか相手に授業しているみたいだ。
「俺もさ、いろいろあって…」
「うん」
「大学を辞めようかとか、考えたし」
「は?四回で辞めること無いだろ。あと半年だ」
「だから、それはやめた」
 そう言って、円山は空を見上げた。幼稚園児が描く空みたいだ。もっとも単純な青と白の空。
「俺、結婚することになった」
「夕ちゃんとか?」
 夕ちゃんは、円山の彼女だ。
「ああ」
「そうか。驚いたな」
 俺は、空を見上げる。
「あまり驚いているようには聞こえないな」
「そうか?」
「ああ」
 俺たちは、空を見上げたまま話した。
 俺たちの言葉は、まるで空への独白のようで、吐き出された言葉は全て、風に乗って空へ吸い込まれていった。
「夕に、ガキが出来たんだ。夕にとって、初めての家族だし、産ましてやりたいし、産んで欲しい」
「そうか」
「ああ」
「そうか。おめでとう」
 お互い、視線は空へ向けたままだ。
 今、俺はどんな顔をしているのだろうと、思った。
 俺と円山は、高校生のときからの友人だ。俺は、円山のことが友人としてだけでなく好きだ。けれど、自分のことをゲイだとは思っていない。だって、きっと男を好きになるのは円山が最初で最後だから。それは、何故か確信している。
 俺は、この自分の想いを、円山に告げる気も無いし、告げたいとも思わない。円山には、夕ちゃんという彼女がいるのだし、俺にとっても夕は大事な人だ。
 俺と、夕は同じ施設の出身だ。俺は、運良く子供のいない夫婦に引き取られたけれど、夕は施設に残った。それでも、小さな頃から一緒だったし、同い年でもあったから、ずっと連絡は取っていた。
 円山に夕を引き合わせたのは俺だ。
「なんかさ」
 俺は、今の不思議な気持ちをなんとも形容できずに首を傾げる。
「娘を嫁に出す父親の気持ちって、こんなのかな…なんて思う」
 そう、なんだか少し寂しい。
 夕に家族が出来ることは、凄く嬉しい。けれど、寂しい。それは、今までの三人の関係が何か変わってしまうのでは?という不安か、それとも、夕への嫉妬か。あるいは、円山への嫉妬か。
「たまんないな」
「そうか」
 ああ、そうだ。そう言えずに、俺たちはひたすらに空を見上げる。

 しばらく空を見上げていると、円山が煙草に火を点けた。
 一筋の白い煙が、円山の長く骨ばった指の間に巧く収まった煙草から空へ流れ出た。煙は雲のように空をたゆたう。
「こういう日は、自殺日和だと思わないか?死にたいとか」
 俺は、思わず円山を見た。
 彼は視線を逸らさず、やはり空を見たままだ。
「……親に、なるやつが気軽に死を口にするなよ」
「そうか」
 再び空を仰ぐ。
 ゆっくりと、雲が流れる。
「一緒に死のうか」
「…男同士で心中か?最低だな…」
「そうだな」
 円山の口元の煙草が、ジジジっと音を立てた。
「ああ。おまえは、親になるのが怖いのか」
「そうなのか…?そうかもな…。いや、そうか」
 円山は、ゆっくりと目を閉じた。深く息を吐き、体中の汚いものでも吐き出すように、煙草の煙を吐き出した。

 触れたら、崩れるだろう。
 抱き締めたら、零れるだろう。
 まるで掴めそうで掴めない、あの空に似て。
 今、この場から飛び出して、あの空へダイヴしたら掴めるだろうか?けれど、結果失うものが大きすぎるだろう。
 おまえのその瞳に俺が映らなければ意味が無い。青い空を映すその瞳。

 空を見上げるおまえ。
 地に這う水溜りに映るおまえは、いつでも空を見上げている。踏みつけると逃げるし、壊れるし崩れる。


 俺たちは、青空に愛されていると思う。
 夕は、快晴の美しい青を保つ空の日に子供を産んだ。
 夕が子供を産む時、俺も何故か付き添い、円山は片手で夕の手を握り、もう片方の手で、俺の手を握り締めた。
 生まれたばかりの人間の重み。
 俺はきっと忘れない。
 「空」という名前を授かった男の子の成長を、俺はまるで自分の子供のように見続けるだろう。


 あの時どうして、おまえが死を口にしたのか、俺には解らない。「親になるのが怖いのか」と確信をもった口調で言ったけれど、それはあの時のおまえへの慰めのつもりだった。
 でも、それで良かったんだろう?あの一瞬の心の揺らぎは、正しくないだろう。おまえはいつか後悔するだろう。
 おまえは忘れているだろうか?
 俺は今でも思い出す。青い青い空を見上げるたびに。
 雨の後の青い空。死とこれから始まる命の匂い。



end