白い便器に赤いドット。
 石井理沙はそのドットをじいっと見入る。そのドットは彼女の体から流れ出たものだ。痛む下腹部にそっと手を添える。唇を噛む。


赤い道すがら




「何してるの?」
 不意にトイレの扉が開け放たれた。
「葉也くん。わたしが用を足しているところだったらどうするつもりだったの?」
 理沙はゆっくりと振り返り、ドアを開け放った人間を睨みつけた。
 葉也は「ああ」と今ようやく気付いたように言葉を零すと、にたりと笑った。繊細な造りの顔が醜く歪む。
「さあ、どうしようか」
「女一人襲うことも出来ないんだから、先の思い浮かばない行動は止めてちょうだい」
 理沙は、トイレを流すと小さく息を吐いた。赤いドットは水流に掻き消された。
 それを確認すると、理沙は葉也を押しのけるようにトイレを出た。
 狭い1Kの部屋には物が散乱としていた。それを踏み分けるようにして、目的のものを探す。
「何探してるの?」
 葉也が、その後に続き理沙の顔を覗き込む。その表情には、ある一定の必死さが見て取れた。
 けれど、理沙はその目的のものを探すという作業を分担することを拒み、葉也の言葉には応じなかった。
「ねえ。何探してるの?」
 それでも、葉也は理沙の後ろに立ち、その言葉を繰り返した。
「うるさいよ、葉也くん」
「もしかして、これ?」
 葉也は、手に持っていたビンを理沙の前に突き出した。
 ビンの中で透明な液体がたぷんと揺れた。
「それ。ちょうだい」
 理沙は葉也の返事も聞かずに、ビンを奪い取り、一気に呷った。
「理沙。ジンをストレートで一気に飲むの止めろよ」
「葉也くんには関係ない」
「一人で急性アル中になったらどうするんだよ」
「そうね。死ぬだけね」
 理沙の言葉に、諦めを覚えた葉也は、床に散らばる雑誌やらCDやら服やらを押しのけて、その場に座り込んでテレビを点けた。ひとしきり酒を飲むと、理沙は満足そうに葉也の横に座った。
 テレビからは、今日のニュースが流れている。キャスターは淡々と明るいニュースから暗いニュースまで、何も無かったように読み上げていく。現実で起こったことも、テレビの中では全てフィクションだ。
「ねえ、葉也くん。血の臭いがしない?」
「しないよ」
「嘘」
「しないよ」
「そっか」
 二人の視線はテレビから動かない。
 葉也は机の上に置かれていた煙草を手に取った。理沙が手を伸ばしてきたので、二本取り出す。
 煙草に火を点けると、理沙は再び満足そうに微笑んだ。
「葉也くんのお姉さんも、わたしみたいに生理が不順なんだよね」
「まあね。でも、うちの姉ちゃんの場合は、排卵すらないけどね」
「そっか。わたしは排卵があるだけマシか」
「ガキが産めるぶんね」
 葉也は煙を吐き出した。理沙はその煙を視線で追った。
 ゆらゆらと換気されない室内をたゆたう煙は、天井辺りで見えなくなった。
「わたし、子供なんていらないな。わたしみたいな子供になったら可哀相だもん」
「俺みたいなガキになっても厄介だしな」
「いいじゃない。それでも葉也くんは浩二くんを愛してるんだもの」
「そう?」
「そうよ。人を愛せるって素敵だわ。わたしも、葉也くんみたいに誰かを好きになれたらいいのに」
「理沙ならできるよ」
「わたし絶対に、パパやママみたいにはなりたくないわ」
 ビンごと酒を呷りながら理沙は言った。そして、静かに笑った。
 葉也は、何も言わずにブラウン管を見詰め続けた。そして、あの赤いドットを思い起こした。それは、女の象徴であり、人間全てに生物全てに共通する色だ。生きていたら避けることの出来ない色。葉也も、理沙も、誰も彼も、あの色の中から生まれたのだ。
 今ここで、体のどこかを切り裂けば、すぐにでも見られる色。
 理沙も葉也も、その色を嫌悪していた。
「なあ、理沙」
「何?」
「好きだよ」
「うん。わたしも葉也くんのこと、すごく好きだよ」
 理沙の言葉に葉也は安心したように、床に置かれた彼女の細く白い手を握り締めた。
 ガリガリに痩せた理沙の体。それに欲情はしないけれど、確かに葉也は理沙のことが好きだった。大切で大切で愛している。
 だからこそ、この狭い部屋で一人きりで血を、涙を流す彼女を放ってはおけなかった。
 幼い頃から、理沙はこの部屋で一人きりで生きてきた。葉也はこの部屋を訪れるたびに、部屋の孤独感に唇を噛み締めた。自分だったら、決して耐えられないであろう空間で、世界で、理沙は生きているのだ。
 その理沙を抱き締めてあげることの出来ない自分を呪った。
「葉也くん。わたしは寂しくないよ」
 そう言う理沙の目は、とても寂し気だった。
 伸ばした手は、いつも彼女の背に回ることは無く、肩に、頭に、首筋に置かれた。それでも理沙は、嬉しそうに微笑み、置かれた手を包み、元に戻した。
「いつか俺が、一人で生きていけるようになったら、俺が絶対に理沙を一人きりになんてさせないから」
 葉也は、細い細い手をぎゅっと強く握った。
「葉也くん。それ、プロポーズみたいだよ」
「そっか」
「そうだよ。そういうのは浩二くんに言ってあげなきゃ」
「うん。でも、俺は浩二にも理沙にも言うよ」
 ようやくブラウン管から視線を外し、葉也はしっかりと理沙の目を見詰めた。理沙はその大きな目をぐっと開けて、葉也を見詰めた。
 強く優しい目だ。けれど、とても果敢なく弱い。こんな目をした少女が、一人きりで道なき道を歩む後姿。
「浩二くんと、葉也くんと、理沙の三人でいつまでもいつまでも一緒にいられたらいいね」
「うん。俺が理沙を抱き締めることが出来ないぶん浩二が理沙を抱き締めるし、浩二が理沙に言葉を伝えきれないぶん俺が理沙に言葉を伝えるよ」
 理沙は、葉也の手を強く強く握り返し「うん、うん」と何度も頷いた。
「わたしは、葉也くんや浩二くんと同じ色を持っているだけで幸せよ」


 風が吹けば、たちまち倒れてしまいそうな、そんな体でも、二人で支えれば確実に一歩一歩踏み出すことができるだろう。遥かまで続く道に点々と続く赤いドット。その流れ落ちた血のぶん、彼女の体を強く強く支えることが出来れば、それはきっと幸せな道でしょう。

 葉也が、浩二がいれば、理沙はきっと血を流しても、涙を流すことは無いから。


end